ロメオ(読み切り短編)

 

 場末の酒場といえば、思い浮かぶのはありきたりの光景か。

 

 レイグラードの南東。国立シュトレーメル音楽協会をさらに南へ行った帝都の境に酒場があった。

 戸口に「Romeo」と刻まれた小さな木製の看板がぶら下がっている。

 霧雨の中で青白いガス燈が揺らめいて、何とも言えない陰気な印象を与えているのだが、それをさらに冷え冷えとさせているのが、店の中から聴こえてくる女の歌声だった。

 

 

  Er fehlt mir einfach.(寂しいわ)

  あなたがいない この街はつまらない

  Er fehlt mir einfach.

  命の続く限り この情熱はわたしの身を焦がすの

 

 北風に震える小枝のように、力はなく、掠れ、しかし耳を塞ぎたくなるほどではない。込められた感情が実在する故なのか、彼女の声には一種の呪力が宿っていて、それがセヴランを捕らえ放そうとはしなかった。ピアノもヴァイオリンも、彼女に添う音は何もない。ただその歌声だけが店に響いている。本来の旋律を、その声から推測することは困難なように思えた。

「ワインでも飲むか?」

 老年の店主がガイガーに声をかける。

「イェンスター・バージーがあるぞ。質のいい赤ワインだ」

「気にしないで」

 カウンターに肩肘を突き、気だるそうに歌に耳を傾けていたセヴランは、白髪に少し黒髪が交じっている店主を一瞥して言った。

「だが、こうやって週に一度来てもらっているのだから、何か礼が必要だろう」

 そう言いながら、店主は眼前の青年に見惚れる。

 薄暗い店内であっても、艶を帯びている漆黒の髪。白い肌が描く造形は、鼻の先、唇の膨らみまでが完璧すぎるほど完璧であり、まるで彫像を相手にしているようでぞっとさえする。その暗青灰色の双眸に宿る意味深な光を見つめれば、底なしの闇の淵に触れてみたくなるような衝動をかき立てられた。

 小さな酒場の、少し埃臭い古い店内に、この客はあまりにも似つかわしくなかった。レイグラード最高のガイガー。本当なら、彼のヴァイオリンこそ、誰もがずっと聴いていたいはずだ。

「彼女、まだ歌うつもりなの」

 セヴランは水の入ったグラスを持ち上げて問う。彼の他に客はいない。あの歌声さえなければ、もしかすると多少は賑わうかもしれないのに、とは店主も思う。だが、老人は首をふった。

「歌っていないと、死んでしまうかもしれない。ビビは」

「でも」

 セヴランは眉根を寄せる。やせ細ったビビは歌っていた。肌は青く、かつて男たちを魅了した美しい赤毛も今は艶を失っている。だが、ショコラ色の双眸だけは、こちらを見つめる虹彩にだけは、まだ生がしがみついていた。それが17歳の娘とは思えない、儚いが故の色気のようなものを感じさせる。

「気力だけで歌っているのだよ。セヴラン、お前さんがこうしてやって来てくれるから、何とか持ちこたえている」

「約束だったからね」

 セヴランは目を細める。

「約束? ビビと約束をしたのか?」

「いや――古い友人とね」

 

  Er fehlt mir einfach.

  Er fehlt mir einfach.

  ……

 

 歌声が途絶えた。

「セヴラン」

 ビビは浅く息をつき、よろめきながらカウンターに近づいてくる。

「あっ」

 つまずきそうになったのを、ガイガーが片腕で受け止めた。

「たいじょうぶ」

「ごめんなさい、少し目まいが」

 そう言って娘はうつむく。セヴランはそれを苦い顔で見下ろした。

「もう歌はいいの」

「ええ、今晩は」

 ビビは答える。

「来週も、来てくれるでしょう?」

「……家まで送るよ」

 確約をすることが、娘に生きる気力を与えるのだろうと思う。焦がれた男が、また会いに来てくれるという希望。その希望こそが、ビビのすべてだとセヴランにもわかっていた。

 だが、だからこそ、返事をためらう。

 生にしがみつく理由が己であることに戸惑っている。

 店を出ると、夏の余韻を微塵も残していない、冷たい風が二人の体を打った。

 

「音楽大祭、セヴランは出演するのよね」

 アパルトメントの階段を上りながらビビは言う。

「うん」

「聴きに行けたらいいのに。予選音楽会にも出たかったのよ。わたしだって、レイグラードの楽団員ですもの」

「キミは体をよくすることだけを、考えたほうがいいよ」

「……セヴラン」

 ビビは階段の途中で立ち止まり、セヴランをふり返った。乾いた咳が二度聞こえる。娘は3階へ向かう2段目に立ち、ガイガーは階段へ片足をかけたところだった。やつれた表情が嫌でも目に入る。

「なに」

「わたしが明日いなくなったら、あなたは、わたしを想って泣いてくれる?」

「ビビ……」

「ねぇ、泣いてくれる?」

 返答に詰まる。そう約束してやることが、ビビを生き長らえさせる希望になるのか、それとも明日の朝日を彼女が見ること叶わぬ最期の安らぎになるのか。セヴランにはわからなかった。

「あの店には、キミがいなくちゃ」

「ふふ」

 ビビは笑った。それから二度、咳をした。細い両腕をそっと伸ばし、セヴランの肩に回す。

 

  Er fehlt mir einfach.

  Er fehlt mir einfach.

 

 耳元で囁いた。

「ねぇ。この歌が欲しいんでしょう?」

「知っていたの」

「マスターから聞いたわ。楽譜を掘り出したのは、マスターですものね」

 ビビはそっと、少しずつセヴランに体重をかける。踊り場のアーチ型の窓から、雲間からわずかに顔をのぞかせた濡れた月明かりが注いだ。月夜の雨は、ビビの魂に手招きをしているようだとセヴランは思った。

「いずれ返してもらうよ」

 酒場の店主は元楽団員で、若い頃に掘り出した楽譜と同じ名の店を開いてからは、楽器を手にすることはなかった。

「だめよ。あの歌は、あの店で歌われるべきなのよ。わたしがいなくなっても、他の誰かがあそこで歌うの」

「あの楽譜は、ボクの古い友人のものなんだ」

「まぁ」

 ビビは声を上げる。セヴランの胸に顔を埋め、くすくすと笑った。

「冗談がお上手ね。あの歌を作曲したのはレーヴィよ。何百年も前の<迷える奏者>よ」

「ビビ、離れて」

「いやよ」

 小さな肩が震えている。赤毛が月光に溶けて消えそうだ。

「セヴラン。好きよ。大好きなの」

「ビビ」

「お願い、嘘でもいいの。一度でいいの。好きと言って。ビビ、愛していると言って!」

 ビビは力いっぱいセヴランを抱き締めた。二人は踊り場へ、月光の頼りない舞台の上へ押し出される。

「あなたに焦がれる星の数ほどの女(ひと)のことなんて、わたし今は忘れるわ。今、ここにはわたしとあなたしかいない。誰も聞いていない。神様もきっと耳を塞いでいてくれるわ。お願い。あなたに焦がれているの。お願い。あなただって、わかっているのでしょう?」

 それでも、こうして歌を聴きに来てくれるのでしょう? ビビの声は次第に熱を帯びていく。

「ねぇ、セヴラン。今晩は帰らないで。ずっと一緒にいて」

「それはできない」

 セヴランは両腕を垂らしたまま、自らビビに触れようとしなかった。雨に濡れた赤毛と外套を、ただ静かに見つめている。

「一言でいいの、一言でいいのよ」

「ボクは嘘をつきたくない」

「……勝手な人ね」

 ビビはセヴランから一歩離れた。微笑しているその目の端から、雨粒ではない、一雫がこぼれ落ちる。

「さっきは嘘をついたくせに」

「ビビ」

「いるのね、好きな人が」

「そうじゃなよ」

「ほら、また嘘をついたわ」

 ビビは笑った。それから三度、咳をする。

「嘘じゃないよ。ボクには人を、好きになる資格がないだけ」

「かなしいことを言うのね、漆黒のガイガー」

「そうかな。ボクには、ボクに課せられたことは、すべて仕方のないことだと思っているからね」

「まるで、どこかへ去ってしまうような言い方ね」

「……」

 ショコラ色の双眸に見つめられ、セヴランははっとして息をのんだ。そのようなことを、口走ってしまったのだろうか。

「わかったわ。ごめんなさい、困らせたりして」

 ビビは指で涙をぬぐい、それから首をふった。

「おやすみなさい、セヴラン」

「おやすみ」

「ねぇ、おやすみのキスをして」

「え」

「いいでしょ? おやすみのキスよ。兄妹がするようなキスよ」

「でも」

「ほら」

 そう言うと、ビビは目を閉じてしまう。音のない雨の影が、彼女の青い頬を滑り落ちていく。セヴランは前髪をくしゃりとなで、それから小さく息をついた。階段を上って来る者はいないか、下りて来る者はいないか。慎重に見回して視線を戻す。彼女はじっと待っていた。

 セヴランはとうとう観念して、彼女に一歩近づく。肩に手を置くと、びくりとするのがわかった。

「――おやすみ、ビビ」

 そっと、触れるか触れないか。セヴランの唇が、ビビの頬をかすった。

「……それだけ?」

 すぐに離れたガイガーを、ショコラ色の瞳が追いかける。

「いや、その」

「嘘よ、嘘」

 それからすぐに笑顔になった。一瞬、彼女の頬に赤みがさしたように見えた。

「ありがとう、セヴラン。困らせてごめんなさい」

 セヴランが触れた場所にそっと手を添えて、ビビは満面の笑みを向けた。

「おやすみなさい」

 

     *

 

 それから5日後。

 セヴランは「Romeo」の店主から、ビビが息を引き取ったと伝えられた。

 身寄りのない彼女は、協会によってレイグラード郊外の墓地へ埋葬されたという。それを聞いたセヴランは「そう」とだけ答えた。

 

 音楽学院の正門前に人だかりができている。

「リジィ」

 それを押しのけて現れた青年に、リジィは目を丸くした。

「どうしたの、セヴラン?」

「ボクと一緒に来てくれない」

「だめですわ、ガイガー」

 二人の間を裂くように、小さなグレーテルが腕を伸ばす。

「リジィはこれから音楽大祭の練習ですの。少しの時間もムダにはできません」

「……セヴラン、どうかしたの?」

 リジィが首をかしげる。

「どうって?」

「うん、なんとなく。さみしいなって思ってるのかなって」

「ボクが、さみしい?」

 

 ――わたしが明日いなくなったら、あなたは、わたしを想って泣いてくれる?

 

 脳裏にビビの声が蘇った。北風に震える小枝のような、それでも必死に燃える陽の欠片のような。

「ねぇ、セヴラン。どこに行くの?」

 グレーテルが制するのも聞かずに、リジィはガイガーの袖を引っ張った。

「キミに」

 ガイガーは息をのんだ。ビビが必死に捉えようとしていた己の腕は、今、目の前の少女を抱き締めてしまいたい衝動にかられている。

「キミに……」

 だが、セヴランはこらえた。

(ボクには)

 そう言いかけて、やめた。

 

 ――あの歌は、あの店で歌われるべきなのよ。わたしがいなくなっても、他の誰かがあそこで歌うの。

 

「キミに、歌ってほしい曲があるんだ。だから、来てほしい。ボクと一緒に」

「わたしに?」

「ボクの、古い友人の歌だよ」

 秋風が二人の間を吹き抜ける。リジィの栗色の髪がふわりと宙に舞う様を、その一瞬を、ガイガーは見逃すことがないようにと祈る。

 

 ――わたしが明日いなくなったら、あなたは、わたしを想って泣いてくれる?

 

 

<了>

 

 

>ビビが歌った『Romeo』のフルバージョンはこちらです。