「音楽祭は雷鳴と共に」7 『田園の春』

 

 

 昼過ぎのベレント邸に、力強く、しかし切なさを漂わせた歌声が響く。

 

  貴方を想って泣くことを 今晩だけはお許しください

  貴方を想って歌うことを 貴方のお墓に口づけすることを!

 

「さすがはダニエラね!」

 鍵盤から手を離したハンネは、黒縁の眼鏡を持ち上げる。

「これまでで一番の『収穫祭の夜に』よ。なんだかんだ文句を言いながら、ここまで仕上げてくるなんて。見直したわ。さすが私たち<猫(カッツェ)>の楽長よ」

「やだぁ、ハンネったら」

 甘ったるく響く声を上げ、フィネがヴィオラをあごから離した。金の巻き髪が、窓から注ぐ秋の陽射しに溶けそうなほどまぶしい。

「ダニエラ様はぁ、いつでも、いっつも完璧なの」

 楽団一のダニエラ信者であるフィネにとって、学長の少々の不調は眩んで見えないらしい。

「なにを言ってるのよ、フィネ。予選音楽会が終わってすぐのダニエラ、腑抜けだったでしょう。ふにゃっふにゃのコンニャクのようにね」

「コ、コンニャクゥ?」

「あら、知らないの? 東方の島国で広く食べられている食材よ」

「よくわっかんないけどぉ。ダニエラ様をばかにしてるんだったら、許さないからね?」

「ばかにしてるのは、あんたの頭の中のお花畑具合なんだけど」

「も~、ハンナひっどぉい!」

「ね、今日の練習はもういいでしょ?」

 ヴァイオリンをケースに収めたヒルデガルダが、燃えるような赤い髪に指を絡ませ眉根を寄せた。

「夕方から歌劇場でシュトレーメル・オペラの練習があるんだし」

「シュトレーメルの新作オペラ、すっご~くドキドキするわよね~」

 フィネはヴィオラを抱き締める勢いだ。

「全体練習も何度もしているのに、どんな劇なのか、演者にもまったくわからないようにされているの」

「宮廷楽団の指揮者ダブロフスキーの命令ね。偉そうなんだから、若いくせに」

 ダブロフスキーは21歳の新進気鋭の指揮者で、楽団員デビューしてすぐに宮廷楽団に入った天才である。才能と野心に溢れているが、その性格はあまり人を寄せ付けない。ハンネも相当嫌っているようだ。

「顔はかわいいんだけどね、彼」

 さすがのヒルデガルダも苦手らしい。

「とにかく、オペラの練習まで休憩ってことにしましょうよ。現地集合、現地集合。ね?」

「ヒ~ル~ダ~」

 ハンネはメガネの奥から鋭い眼光を飛ばず。

「あんたも! いい加減にしなさい! またどこぞの馬の骨な音楽家と噂なんぞになりおって! チェロ奏者のクリスハルトはどうしたのよっ?」

「やだ。どこぞの、じゃなくて、若手楽団員のアードリアンよ。クリスハルトとは、とっくに終わったの。それにしてもハンネったら、言葉遣いがおっさんくさいわね。……ふふん、あたし知ってるんだから」

「な、なによ」

「う、わ、さ。ハンネったら、最近、フーゴ・ブックと逢っているっていうじゃない?」

「ええ~? フーゴって、シュトレーメル・オペラにも出演してるベテラン歌手のおじさまじゃな~い」

 フィネが目を輝かせる。

「そうよ、そのフーゴ。彼の渋いのが、うつってきちゃったのかしらねぇ。うふふ」

「ヒルダ……あんたそれ、どこで」

「やっだ、図星? あの新聞記者が言うことだから、ちょっと信用してなかったんだけど」

「新聞記者ぁ? だれだれ?」

「フィネのところにも通ってきてたでしょ。あの『ツァイト・ロース』の社長の息子っていう、丸い……だれだっけ?」

「あのまる~い……えっとぉ、だれだっけ?」

「残念ね。新聞社の社長令息っていっても好みのタイプじゃなかったから、名前、覚えなかったわ」

「……あんた、その人としてどうかと思う発言、取材ではするんじゃないわよ」

 ハンネはヒルダに盛大な溜め息を送った。

「うふ、とにかく。ハンネだって愛しいフーゴに逢いたいでしょう? っていうか、逢うつもりなんでしょう? いつものお団子頭をほどいて、ハーフアップなんかにしちゃって」

「う」

「だったら、一回解散でもいいじゃない」

「だ、だめよ。もう少しだけ。シュトレーメル・オペラも大事だけど、<猫>の舞台も気を抜けない。ダニエラ以外は、まだ直さなきゃならないところがあるんだから」

「こう毎日じゃ気が滅入るわ。あんただって、そう思うわよね? ジル?」

「べつに」

 クラリネットを構えたままの少女ジルは、銀髪のおさげ髪の先をじっと見つめていた。

「もう、ジルったら」

「意見がまとまったところで、もう一回だけ合わせるわよ」

「えぇ~?」

「どこが意見をまとめてるのよ?」

 

「――ダニエラ」

 

 ハンネに食ってかかるフィネとヒルデガルダを背に、イザベラは深緑色の長い髪をした、美しい楽長へと歩み寄る。完璧なアーモンド形の瞳、魅力的な唇の造形、見ているだけで胸が熱くなる。だが、イザベラがもっとも愛しているのは、彼女と共にいた時間だった。ハスロ王国から渡り、楽団員試験を突破し、苦しい下積み時代を過ごしてきた。

(ダニエラとだから、途中で諦めずに頑張れたんだ)

「ダニエラ」

 イザベラは、喉まで出かかった言葉を、押し込む。

 プロポーズの返事を聞かせてほしい。

 美しい鳶色の髪と瞳を持つ、長身のフレティスト。イザベラは、多くの人々の目を欺けるほど完璧な女装をしているが、実は男である。女装は、彼女――いや彼にとって、ダニエラへの主張であり、防御でもあった。いつかは、目の前の愛しい相手も、それに気づいてくれると信じていた。だが。

(そんなこと、今は言えないな)

「君に、言っておきたいことがあるんだ」

「なによ?」

 ダニエラは手もとの楽譜から目を離さない。

「この間、なりゆきで<地下牢>に潜ったことは、話しただろう?」

「そうだったかしら」

「そこで見つけた楽譜を、ルッツ・アーレンスという少年に渡したいんだが。今はアタシが預かっているんだが、一応、渡す前に楽長に報告しておこうと思って」

「そ」

 楽譜の所有は、楽団員にとって大事だ。そのことには人一倍関心の強いはずのダニエラに、イザベラは眉根を寄せた。

「やはり『炎』の楽譜を手放したことを、後悔しているか?」

「そんなんじゃないわよ」

 ダニエラはようやく顔を上げる。

「好きにすれば?」

「ああ。じゃあ、そうするよ」

 イザベラは頭をかいた。いざ目を合わせると、やはりまだ気まずさが残る。

「ダニエラ」

「しつこいわね」

「いや、聞いてくれ。この曲のことを。これを掘り出した時に出会った、アーレンス兄弟の幻のことを」

「興味ないわ」

「少しだけでいいんだ、聞いてくれ」

 イザベラは椅子に置いてあった木箱を開け、楽譜の束を持ち出した。背筋を伸ばし、その詩を朗読する。

 

  そして春 ああ田園に春が来る!

  すべての命が目覚め 喜びに歌う春が

  変わらぬ春が 変わらないでほしいと願う春が

  まさに春 ああ田園に春が来る!

  君は知っているか 僕がどれほど待ちわびていたか

  君は知っているか 僕がどれほど願ってやまないか

 

「組曲の中に、一つだけ詩がついていたんだ。アーレンス兄弟の絆が込められた、素晴らしい詩だよ」

「だから?」

「だから、その」

「あんたって、いっつもそう。直接的で強引だと思えば、肝心なことは遠回しで、他の何かに頼ろうとする」

「ダニエラ……」

「そんな詩、私にはまったく響かないわ。くれてやればいいじゃない。そのアーレンス兄弟の子孫なんでしょう、ルッツ・アーレンスは? ハンネから聞いてる。それなら、楽譜の所有権も文句なく彼のもの。それでいいわよ」

「アタシが言いたかったのは」

「イザベラ」

 フレティストから背を向けたダニエラが、大きく息を吸ったのがわかった。

 

「私、セヴランに告白する」

 

「え……!」

 

 言い争いをやめ二人を見守っていた楽団員たちは、同時に声を上げた。

「あんたに言いたいこと、わかるわよね?」

 プロポーズは受けない。そう、ダニエラは言っているのだろう。

「わかった」

 イザベラは口端を緩めて笑みを描こうとする。だが、頬が引きつり中途半端な表情になった。

「君の、健闘を祈るよ」

「……ふん。なによそれ。もっとマシな言葉はないわけ?」

 ダニエラはそれだけ吐き捨てると、ドアを荒々しく鳴らして出て行った。

 

     *

 

「イザベラさん!」

 16時を過ぎていた。ブリーゼマイスター家を訪ねて来たイザベラを、リジィは両手を広げて歓迎する。

「セヴランから、君たちがここにいると聞いて。練習は進んでいるか?」

「えへへ」

 栗色の髪が横に揺れた。

「あ、でも。グレーテルとルッツは、アンサンブルがすっごく上手になったんですよ! この間も<地下牢>でちょっとだけ『炎』を具現化できたし……」

「リジィ!」

 興奮気味に話すリジィの背後から、ものすごい怒気が押し寄せてくる。

「あ、グレーテル」

「あ、グレーテル、ではありませんわ。ここはわたくしの屋敷です。わたくしがいて当然です」

 グレーテルは翡翠の瞳を半月にした。

「なかなか二階に上がって来ないので下りて来てみれば。リジィ、あなた、おしゃべりがすぎましてよ」

「え?」

「え、じゃありません。そういうのは秘密にすべきですわ」

「そうなの?」

「そうなのです。そういうものなの!」

「――ブリーゼマイスター嬢」

 イザベラは目を丸くする。

「『炎』って、エルザ=マリア・ゲルルの楽譜だろう? ダニエラが君たちに渡した」

「そ、そうですわ」

「なぜ、音の魔法が宿っているんだ?」

 響石が音を具現化できるのは、ヴィンター王朝時代に作曲され、<地下牢>に閉じ込められた<見捨てられた楽譜>の原譜だけだと考えられている。具現化できるのも、発掘された“選ばれた楽器”だけ。故人とはいえ現代の、前王朝の音楽家たちを超えられないと言われているレイグラードの楽団員が、音の魔法を楽譜に込められるはずがない。

「し、知りませんわ」

 グレーテルはイザベラから顔をそむける。

(嘘が下手だなぁ)

 鳶色のフレティストは令嬢の態度に吹き出しそうになるが、かろうじて留めた。

「そうだ。ルッツ・アーレンスはいるか?」

「あ、楽譜。持って来てくれたんですね」

 リジィの目が輝く。<地下牢>でアーレンス兄弟の遺志と対面し、その音色の一部を耳にしている二人も、楽譜の譲渡は待ち遠しかっただろう。

「アーレンスがすぐに楽団員になったからな。どうせフォルトナー伯爵のはからいだろう?」

「え、えへへ」

「ルッツの実力です。当然ですわ」

「へぇ。ブリーゼマイスター嬢はずいぶん彼を買っているんだな」

「そ、そうではありません!」

 グレーテルは顔を赤くし階段を先に行ってしまう。

 <残響>が置かれている真っ白な二階の部屋に入ったイザベラは、思わず声を上げた。

「な、なんだ、これは……?」

 20人ほどがそこに詰めている。この屋敷の使用人たちのようだ。彼らは部屋の中央を囲むように少し腰を曲げ、何かを覗き込んでいた。彼らの中から聞き覚えのある声がする。

「もう……もういいだろって! 助けろ!」

「アーレンス?」

 イザベラが首をかしげると、リジィが苦笑して答える。

「えっと、その。これは、グレーテルがルッツのあがり症を治そうとしてて」

「こんなんで治るわけねーだろー!」

 姿の見えないルッツが反論した。

「椅子に縛り付けているのですわ」

 グレーテルは人差し指を立てる。

「ああして間近で視線を浴び続ければ、舞台の上で感じる視線など、まったく気にならなくなるはず」

「んなわけねーだろ! 離せ! 離せよ、グレーテル!」

「だめですわ。あと30分」

「ふっざけんなよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」

 最後は怒声なのか悲鳴なのかわからなかった。

「取り込み中のようだから」

 イザベラは頭をかく。

「楽譜はブリーゼマイスター嬢に渡しておこう」

「そうしてくださるかしら」

「リジィ。楽譜の中に一曲、歌曲があるんだ」

「歌ですか?」

 栗色の双眸が見開かれる。

「ああ、とてもいい歌だよ。ぜひ君たちの演奏を聴いてみたい」

「は、はい!」

「じゃあ、アタシは帰るが。リジィ、屋敷の外まで送ってくれるか?」

「……?」

 グレーテルに楽譜の入った箱を渡し部屋を出て行くイザベラの横顔が、いつもとは違う気がして、リジィは戸惑う。

 

「この間のオペラ座公演、成功だったそうじゃないか。よかったなぁ」

 屋敷を出たところでイザベラは切り出した。

「ありがとうございます!」

「……いや、そうじゃなくて。君に言っておきたいことがあるんだ」

 イザベラは咳をする。

「こういうのは、告げ口というのかな。いや、君だって知らないほうがいいのかもしれない。しかし、どうしても言っておきたいんだ。これは、アタシのわがままだ」

「イザベラさん、どうしたんですか?」

「ダニエラは、セヴランに想いを伝えるそうだ」

「想い……?」

 リジィには、イザベラの言っていることが飲み込めないようだ。

「君は、ダニエラにセヴランを取られてもいいと思っているのか?」

「あの、イザベラさん。よくわからないです。取る、だなんて。だって」

「君にとってセヴランは、再び舞台へ引き上げてくれた恩人、歌の先生、音楽仲間」

「は、はい。その通りです」

「今は、それでいいかもしれない。アタシだって……ダニエラが側にいてくれれば、それでよかった。だが、じゃあ、セヴランが君の側からいなくなってしまうとしたら、どう思うんだ?」

「え」

 思ってもみないことだ。リジィは足を止める。

「だから、もしもダニエラの想いをセヴランが受け入れたなら。君との関係は、これまでのようにはいかなくなるって言ってるんだ」

 風が吹く。

 広大な屋敷の庭を抜けてきた風が、リジィの髪をかき回して去った。

「……その」

 リジィはうつむき、制服の裾を見つめる。

「よく、わからないです」

「そうだよな!」

 一拍の間の後、イザベラは豪快に笑ってみせた。

「いや、すまない。困らせたかったわけじゃねーんだ。うん、忘れてくれ。ダニエラだって、本気でそう思っているかわからない」

「……」

 リジィは黙った。ダニエラは本気だ。

 残酷なことを言うのね。

 彼女が以前見せた涙の痕が、今でも脳裏に鮮やかに焼き付いている。

「アタシはここで失礼するよ」

「あの……」

「大丈夫。何があっても、アタシのダニエラへの気持ちは変わらない」

 歌姫にプロポーズをしたフレティストの情熱は、まだ消えてはいない。

「後は彼に任せるよ」

「あ」

 真っ直ぐに伸びる敷地内の馬車道。その向こうに黒い人影が見えて、リジィは声を上げる。

「セヴラン――」

「じゃあな」

 イザベラは満面の笑みを向けリジィから離れる。セヴランに手を上げると、そのまま正門のほうへと消えていった。

「これを」

 リジィの前まで歩み寄ったセヴランは、白い菓子箱を渡した。

「差し入れ。『ハ長調』のオランジェトルテ。キミが好きだと聞いたから」

「ありがとう!」

「……その」

「その?」

 漆黒のガイガーは前髪をくしゃりとなで、うつむいた。言いにくいことなのか、しばらく間がある。やがて「約束したから」と小声で言った。

「約束?」

「真っ赤な赤い薔薇」

 首をかしげるリジィに、セヴランは微笑む。

「葉をつけた純白、それから赤いつぼみ」

「あ――」

 栗色の瞳が、大きくなった。

「やっぱり、セヴランだったんだ。わたしが楽団員の資格を取り上げられそうになった時、毎日薔薇の花を届けてくれていたの」

「言うつもりは、なかったんだけど」

 約束したしね。そう言ってガイガーはリジィから目をそらす。

「どうして、姿を見せてくれなかったの」

「だって、ボクは。キミと同じ舞台に立ちたかったけれど、キミが本当に歌うことを拒んでいるのなら、そっとしておいてあげたかったんだ」

 でも、と付け加える。

「ボクと偶然再会して……キミに再会という意識はなかったけれど、とにかく、キミは歌うことが好きだと告白してくれた。ボクは、とても嬉しい」

「セヴラン」

「キミが忘れたままでいるなら、それでもいいと思っている。けれど、もしも思い出してくれるなら、これほど幸せなことはない。ボクの、わがままだけど」

「思い出すって、なにを?」

「ボクたちが、初めて出会った時のことを」

「初めて」

「フォルトナー家の庭の池」

 セヴランが紡いだ言葉は、あまりにも脈絡がなかった。

「ジークの、家の?」

「思い出せないなら、いいよ。いいんだ」

 微笑むガイガーはどこか寂しそうだと、リジィは感じる。

「でも、忘れないで。これからどんなことが起ころうとも、ボクはずっとキミを見守っているって」

 残酷なことを言うのね。ダニエラの声が響く。

 もしもダニエラの想いをセヴランが受け入れたなら。君との関係は、これまでのようにはいかなくなる。イザベラの言葉を思い出す。

(わたしは――)

「リジィ」

 何も答えられずにいると、セヴランはリジィから一歩離れた。名を呼ばれる。それは、今さっきまでとは明らかに違い、凍てついた。

「キミに、頼みがあるんだ。今日はそれを言うつもりで、会いに来たから」

「頼み?」

 間があった。

 風が、秋の夕方の冷えた風が背中をなぞる。

「あの楽譜――」

 暗青灰色の双眸がリジィを居抜く。

 

「キミが<地下牢>から密かに持ち出した楽譜。あれを、ボクに譲ってくれない」

 

「え――」

 

 ぞくり、と全身が震えた。

 ガイガーがなぜそんなことを言い出したのかリジィにはわからず、ただ彼を見つめ返すだけだった。

 

 

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「田園の春」フルバージョンはこちら。

 

「収穫祭の夜に」フルバージョンはこちら。

 

>参考に「告白」「イザベラの夢」「脅迫状に涙の痕」もどうぞ。今回の更新分と特に強くリンクしている回です。