「音楽祭は雷鳴と共に」10 アイヒンガー攻防

 

(ここには、いずれ世話になると思っていたが)

 

 クラウスは油で黒く汚れた手に息を吹きかけた。冷えた指先にじわりとくすぐったい感触をもたらす。

(まだ先の予定だったんだがなぁ)

 生まれた時から、自分の生涯は定まったと思っていた。

 

 

 炭鉱の村アイヒンガー。

 帝都レイグラードより南東に位置しているが、深い谷間にあるので冬は雪が深い。ヨルク湖が冷やす風が山肌を駆け上がり、旅人すらも遠ざける。住むのは鉱夫か漁師くらいのものだ。蒸気鉄道は国土の西側にばかり延びていて、この殺風景な寒村に住む者たちとは、まったく縁のないものだった。掘り出された石炭は馬や牛に引かせ、少しずつ運んで行くしかない。近頃は全盛期の半分の採掘量もなく、村の者たちは雪が坑道を埋める頃になると谷を抜け、ヨルク湖で漁を手伝ったり、レイグラード近郊の農家に住み込んで家畜の世話をしたりしている。

 アイヒンガーの人々に不満などなかった。貧しくとも谷を出ようなどとは、誰一人考えなかった。鉱夫の子として産まれた男児は鉱夫となることを疑わなかったし、女は皆思慮深くたくましい男たちの妻であることを誇りに思っていた。

 クラウス・シリー少年もまた同じだった。10歳になれば鉱山で下働きを始める。やがて坑道の深い場所へ潜っていって、黒い汗をかきながら一心不乱に、ただひたすらに掘る。運よく事故に巻き込まれなければ、家族に看取られながら息を引き取り、簡素でも温かな葬儀で送り出してくれるだろう。

 彼には弟と妹が7人もいたので、できるだけ早く鉱山に入ってやろうと思っていた。そのために体を鍛え、“親方”に坑道がどういうふうに谷をめぐっているか熱心に尋ねた。

 

 己の内に湧き起こる興味に抗えないと知った時、幼いクラウスは激しく嫉妬した。

 なぜアイヒンガーに生まれたのか?

 なぜアイヒンガーでなければならなかったのか?

 下位官吏の家でもよかった、帝都に生まれてさえいれば、奨学金でも何でも自力で勝ち取って大学へ進学する自信があった。7歳の時には村の牧師が所持する書物をすべて読み終えた。調査のためたまに村を訪れる生物学者や工学者と議論をし、彼らが持って来た本を一晩のうちに読み終えてその概要を諳んじてみせた。覚えた知識を試したくて、“親方”に黙って掘削機を分解した。見つかってひどく怒られたが、やがて修理もこなすようになると鉱夫たちは皆クラウスを頼りにした。それでもまだ、クラウスの好奇心は尽きなかった。

 だから、あの時。

 クラウスは、目の前に現れた男の手を疑わずに取った。彼は目を細め、少年の無念に共感した。私も望む者が得られず、故郷を捨てたのだと言った。その笑顔の裏に潜むわずかな違和感など、クラウスには関係なかった。

 これで大学に行ける。それでよかった。

(その結末がこれか)

 溜め息をつく。廃坑の真っ暗な天井は沈黙したまま。<地下牢>の響石たちのように、強欲に声を吸い取らない。木箱の上に投げ出した設計図。手燭の頼りない光ではほとんど見えないが、クラウスの側には何か、無機質な物の山が影となって寄り添っていた。それほど広い空間ではないようだ。

「さぁて、どうするかな」

 背伸びをする。腐りかけの木椅子が悲鳴を上げた。手の内にある地図を読み込むため、背を丸めて木箱に顔を寄せる。

「辛気臭いぞ、クソぼうず」

 野太い声がした。

「――親方」

 クラウスは顔を上げる。姿を見とめなくてもわかった。村一番の巨漢が穴蔵の入口に立っただけで、その圧迫感はとてつもない。

「てめぇが親方と呼ぶんじゃねぇ!」

 恫喝が返って来る。

「俺のことを親方と呼んでいいのは、鉱山の人間だけだ。軍人はごめんこうむる」

「じゃあ、何て呼ぼうか?」

 怒鳴られたクラウスは、笑いをこらえるのに必死だった。男は相変わらずだ。軍人嫌いなところも。

「父ちゃんも、弟や妹たちも“親方”って呼んでいるからなぁ」

「当然だ」

「俺だけ仲間外れ?」

「俺もてめぇを“少尉殿”などとは呼ばねぇ」

「じゃあ。ベルガーさん、かな?」

「……は?」

「いや、そう呼ぶしかないかなと。アントン・ベルガーさん」

「やめろ、やめろ!」

 ベルガーは太い両腕を勢いよく振った。暗闇でもその動きはよくわかる。

「てめぇに“ベルガーさん”なんて呼ばれた日にゃ、ケツにジンマシンが出ちまうだろ! ――~~親方でいい! 親方にしとけ!」

「はははっ」

 クラウスはついに声を上げて笑った。“親方”がどれほど苦い顔をしているのか、暗闇を透かして見えるようだ。

「少尉、動作確認終わりましたっ」

 ベルガーの背後から顔を出したのは、クラウスの部下ウルリヒ・ディーツ軍曹だった。すぐに白光が射し、クラウスは目を細める。

「鼻っ柱が真っ黒じゃねぇか」

 逆光に浮かび上がったのは、暗闇で想像した通りのたくましいベルガーの輪郭だった。立派な髭の下で、大きな口はへの字に曲がっているのだろう。太い眉の片方を持ち上げ、目じりにしわが深く刻まれた丸い目でクラウスを睨んでいるのだろう。

「ああ……」

「あっ。少尉、袖で拭くのはだめですって!」

 ディーツが声を上げると、ベルガーが笑った。低い雷鳴のような余韻が通り抜ける。

「はは! いいぞ、軍服なんざ汚しちまえ」

「だめですってば」

 ディーツが駆け寄ってクラウスに布を差し出す。軍曹の背後にいたのは、8本脚の蒸気式点灯探査装置<クラウス・マオルヴルフ>だ。蜘蛛のような姿であるのになぜか“モグラ”と名づけられたクラウスの発明は、2つの点灯器の下に小型の穿孔機――ドリルが取り付けられていた。

「それで、マオルヴルフ完成型の調子はどうだ?」

「いいですよ。完璧です。呆れるくらいです」

 ディーツは肩をすくめ苦笑する。

「本当に“モグラ”を完成させるなんて、さすがは少尉です」

「これはウルに褒められたのかな」

「当然です。ここまで曲げない人は、貴方くらいのものですよ」

 後から取って付けたドリルは、どのような形であれ確実にバランスを崩す繊細な構造だったはずだ。それを、クラウスは頭の中だけで設計図を引き直し、このアイヒンガーにたどり着くまでに再構築を終えた。

 “帝国の頭脳”――やはりこの名は、少尉にこそふさわしい。ディーツはその想いを噛みしめていた。

「お体に障りはありませんか?」

「ん? ああ、とっくに抜けている」

 参謀局で無理やり飲まされた自白剤は、クラウスの意識を一時混濁させ、体の自由を奪った。あれがどのような薬かはわからないが、後遺症があっては大変だ。だが、当人はもう平気のようだった。

「それに、あの薬は、実は俺には効かないんだ」

「おっしゃっている意味がさっぱりですね。死にそうでしたけど」

「そうだったかな?」

「これ、見つかったら<音楽卿>に叱られますよね」

 ディーツは振り返って<クラウス・マオルヴルフ完成型>を見る。マオルヴルフはもともとジークフリート・フォン・フォルトナー伯爵の依頼品だ。

「一応納品したから、いいんじゃないか」

 発明家はのん気なものだ。

「完成品の一歩手前のものを、ですけどね」

 ディーツは息をつく。

「大丈夫だ、ウル。伯爵はべつにドリルを付けてくれとは注文しなかったじゃないか」

「そうですが。それでも納品後に改良したと知ったら、お怒りになりますって」

「ウルは、こいつを改良機だと思ってくれているのかな。それはよかった」

「あ、当たり前じゃないですか! 少尉が発明品を改悪したことなんかありません」

「うーん。近頃ウルは素直だなぁ」

「い――」

 クラウスは顎に手を当てる。顔を覗き込まれたディーツは、思わずのけ反った。

「いいじゃないですか!」

 だが、開き直ることにした。

「二度も少尉の命を脅かされて、僕も考えを改めたんです。伝えられる時に、伝えるべきことは口に出しておこうって」

「ふーん」

「ふーん、じゃありませんよ。もっと有難がってくださいね」

「そうだなぁ。うん、そうだな。よし!」

 クラウスは右手を真横に伸ばす。立てかけてあった特殊長剣<皇帝(ケイゼル)>を背負った。

「この件が片付いたら、舞踏(タンツ)で一杯おごろう」

「……いつになるんですかね、それ」

 ディーツはベルガーの側へ戻り、小型の機械を手渡す。

「マオルヴルフの制御装置です。本体とつなげば動かせます。動かし方は、先ほど説明した通りです」

「ああ」

 ベルガーは受け取り、うなずいた。

「そろそろ時間切れだ」

 クラウスは背伸びをする。

「アダム・レール秘書官殿が、じきにやって来る」

「この廃道は爆破して埋める」

 ベルガーは親指で背後を指した。出ろという合図だ。

「なぁに、入口を塞ぐだけだ。お前の大事なモグラには傷一つつけねぇよ。こっちにゃ腕利きの鉱夫がそろってんだ」

「頼む、親方。それから傷つけないでほしいのは<クラウス3号>もだ」

 クラウスは廃道を数歩先へ進んで、手を伸ばした。マオルヴルフの点灯器がそこを照らす。布で隠された大きな塊に「しばらくお別れだ」と囁いた。隙間から緑青色の装甲が見える。彼の愛車<クラウス3号>だ。

「こいつは繊細なんだよ。俺みたいに」

「なら、動かねぇ時はぶっ叩けばいいんだな」

 ベルガーがうそぶくと、クラウスは笑声で返した。

 

     *

 

「兄ちゃん!」

 廃道を出た途端、子どもが弾丸のようにクラウスの腹へ真っ直ぐ突進して来た。

「ヨナ」

 クラウスと同じ金の髪をした子は、10歳になるシリー家の末っ子だ。大きな目は少尉と同じ碧だったが、そばかすはない。

「もう行っちゃうの?」

 ヨナは涙を浮かべ兄を見上げる。

「ああ。またしばらくお別れだ」

「つぎは? つぎいつ会える?」

「そうだなぁ」

「ヨナ。兄ちゃんを困らせるんじゃないぞ」

 大きな腕がヨナを引きはがした。

「――父ちゃん」

 クラウスは目を丸くする。

「まったく、いつの間に俺よりデカくなりやがったんだか」

 アルバン・シリーは大きな口を歪め、にやりとした。ベルガーに次ぐ村の大男は、その頼もしい視線を隣に並ぶ子どもたちに注ぐ。茶色の髪と瞳はクラウスやヨナと異なるが、子どもたちの中にはアルバンとそっくりの風貌の者もいる。金髪碧眼は母親似なのだろう。弟や妹たちは、兄に駆け寄って行きたいのを我慢しているようだった。とうとう泣き出してしまった14歳の妹ナターシャの頭を、クラウスはそっとなでてやる。彼女は髪と瞳こそ父親譲りだが、柔らかな相貌は母親似だった。他の弟妹たちも、おそるおそるクラウスの軍服に手を伸ばす。

「後のことは任せておけ」

 アルバンはフィールドグレーの軍服に眉根を寄せ、襟元の“王冠にハイタカ”の国章と階級を表す一つ星の紋章を見て苦い顔をしたが、息子に視線を合わせると笑顔になった。

「心配するな、無茶はせん。チビたちを食わせてやらなきゃならんからな。死んだ母ちゃんとの約束が最優先だ」

「ああ。頼んだよ」

 クラウスも微笑み返した。廃道に数人の鉱夫が走り込む。爆破の準備をするのだろう。

「お前には、さんざん無理をさせた。貧しい鉱夫の家に生まれたばっかりに、ろくな勉強をさせてやれずにすまなかった。俺に財があれば、何にも縛られずに、軍に囚われずに好きな研究ができただろうに」

「それは違う」

 少尉は首を振る。

「父ちゃんが快く帝都へ送り出してくれたから、俺は好きなことができたんだ。感謝しているよ。この状況をつくり出したのは俺自身だ。気に病むことじゃない」

「怪我をするなとは言わないが、無事でいろよ。クラウス」

「ああ」

「次は恋人を連れて来いよ。いるんだろ、一人や二人。なんたって“帝国の頭脳”様なんだからな」

「そうだなぁ」

「え!」

 ディーツが驚いて声を上げる。

「少尉、そんな方がいらっしゃったんですかっ? どこのどなたですか?」

「歌の好きな、可愛い子だよ」

 それだけ答えると、クラウスは金の髪をくしゃりとかき混ぜた。

「クソぼうず、持って行け」

 ベルガーが猟銃を差し出す。

「いいや、俺は銃を使わないんだ」

「ぼ、僕が」

 ディーツが代わりに受け取った。

「親方、それから父ちゃん」

 クラウスは遠景に目を細める。深い谷に埋まる村を、記憶にしっかりと焼き付けるつもりだ。廃道から下を眺める。赤い屋根の小さな家々が、秋の色に染まる木々に挟まれて鮮やかな絵画のようだと思った。その視線を、ゆっくりと目の前の男たちへ戻す。

「そろそろこの村にもロイテが訪れる頃だと思うけど」

「ああ、そうだな。それがどうした?」

「もし彼らが来たら、この楽譜を渡してほしい」

 クラウスはズボンの尻ポケットから紙の束を抜き出し、ベルガーに渡した。真新しい紙に、藍のインクが五線譜の上で踊っている。

「……手書きの楽譜じゃねぇか。こりゃ、もしかして」

「原譜、に見えればしめたもんだなぁ」

 クラウスは笑った。

「これと同じ物をマオルヴルフの中にも入れている」

「同じ物? 原譜のか?」

「もう一度廃道を掘り開ける時まで、お楽しみだ」

 それから、先ほど眺めていた地図をアルバンに差し出す。

「例の地図。これから監視がつくようになるかもしれないから、あまり無理をしないように頼む」

「お前が俺たちよりこの谷について詳しいのは、納得いかないが」

 父親は苦笑する。

「なんてことはない。俺たちは鉱夫だ。掘ることにかけては誰にも負けやしない。それに、お前が村中の掘削機を調整して回ってくれたからな。どの鉱山よりもいい仕事をしてやろう」

「モグラと車の面倒も任せろ。ここは炭鉱だからな。蒸気式の機械にはエサをたっぷりと与えてやれる」

 ベルガーは得意げに髭をなでた。

「少尉、そろそろ」

 猟銃を担いだディーツが廃道の脇道を指す。

「じゃあ、また」

 散歩にでも行くふうなのんびりとした口調で、クラウスは片手を上げた。

 

 それから30分もしないうちに、村に地響きが渡った。

 谷に押し寄せたのは陸軍。それも一個小隊だ。山道を押し広げるように先頭を走って来たのは、蒸気式装甲車。<クラウス3号>の改良式軍車だった。漆黒に塗られた車体には、騎士兜に「W」の文字をあしらった紋章――グラード帝国陸軍参謀局長ベネディクトゥス・ヴィルシュテッターの紋章が刻まれている。その後ろに馬車が何台も続いた。

「――何の真似だ。そこをどけ。クラウス・シリー准尉を匿っているのだろう。アイヒンガーに家族がいるな?」

 装甲車を降りたアダム・レールは、己の前に立ち塞がる男たちを睨む。視線を合わせないが、秘書官はすでにアルバンの存在を認識しているようだった。

「何の真似?」

 ベルガーは胸を張り、髭をなでた。

「見てわかりませんか。俺たちは鉱夫です。鉱夫が仕事をするだけです」

 男たちは鶴嘴を手にし、軍隊を正面にする。アルバンと数人が掘削機の蒸気エンジンを起動させた。真っ白な蒸気が立ち昇る。機械は新品同様の調子であるようだ。

「ち」

 アダムは舌打ちをする。掘削機を坑道の外で動かすなど、敵対以外にないではないか。だが、男たちはあくまでそれを認めない。歩兵と鉱夫の睨み合いが数分続いた。

「どけ」

 痺れを切らした秘書官が“太刀”と呼ばれる業物を抜く。

「これは命令だ。逆らう者は容赦なく斬り捨てる」

 鋭い三白眼の眼光に、鉱夫の何人かがたじろいだ。その隙を突いて兵たちは人の壁をこじ開ける。

「准尉! この道は塞がれています!」

「火薬のにおいがします! たった今、塞がれたようです!」

「ふん……」

 アダムの表情が険しくなる。

「どうしましょう。掘り返しますかっ?」

「いや」

 参謀長の懐刀は、そこに捜す人物はいないと悟った。すぐ横にある道へ狙いを移す。

「勝手に通ってもらっちゃあ困りますな!」

 隊長の意図を悟った部下たちが脇道に殺到するのを、鉱夫たちがベルガーの号令で阻んだ。四輪を後退させ、掘削機はその鋭い螺旋の牙を兵士たちに向ける。

「この炭鉱は、グラード王家の所有だというのをお忘れですか」

 アルバンが声を上げた。

「俺たち鉱夫は王家に雇われているんだ。その俺たちの仕事を邪魔し傷つけたとあっちゃあ、あんたたちの立場もまずくなるんじゃないんですかい?」

「く……!」

 兵士たちは構えた銃を突き出せず、かといって引っ込めることもできずに戸惑う。彼らはクラウスを追って急行したため、王家の承諾を得てはいなかった。いや、そもそも政を放棄したも同然の皇帝から、鉱山に攻め入る承諾など得られようはずもない。ベルガーの言う通り、このアイヒンガーはグラード王家の領地だった。二重行政の弊害だ。アダムは心中で何度も舌打ちをした。

「貴様らはここに残れ」

 アダムは白刃を肩に乗せ、一歩前へと出た。

「しかし、准尉!」

「私個人が好きで山を散策するのだ。それならば文句はあるまい」

 ベルガーを睨む。先ほどの話の流れで、彼がアイヒンガーの代表者であることは察しがついた。

「勝手に山を荒らしてもらっては困る」

「ただの散策だ。鉱山に入るわけではない。何を心配する必要がある」

 わずかに顔色を悪くしたベルガーの肩を押しのけ、アダムは先へと進む。立ち塞がろうとする鉱夫たちは、秘書官の殺気を帯びた鋭い視線に当てられ勢いを削がれた。谷の男たちもまた、理由もなく“散策する”軍人に手を出せば、ただでは済まないことを承知している。

「――ああ」

 アダムは振り返った。

「念のため、そこの鉱夫たちの家を調べろ。任意で構わない。踏み込まれるのが嫌な者は、事情を訊くだけに留めておけ。あくまで“形式的な”ものでいい。それから、いくら王家の鉱夫といえども、軍の捜査に協力的でなければ、後で議会に訴えることは可能だ。覚えておけ」

(クラウス!)

 もうこれ以上時間は稼ぐことは無理だ。

(お前って奴は、まったく……)

 ベルガーは苦い顔で秘書官の背を見送った。アルバンを見ると、彼もまた拳を握りしめている。

 無茶をしないでくれ。それはお互い様だった。

(約束は守るぜ、必ず)

 ベルガーたちは家族を人質に取られたようなものだ。アダムを追っていけば、どんな言いがかりをつけられるか知れない。家人を拘束されても、抵抗できないだろう。ここに留まるしかない。託されたものを守るという約束も果たさねばならない。もはやただ、クラウスの無事を祈ることしかできなかった。

 

     *

 

 廃道の脇道を1時間ほど進むと、急に視界が開ける。

 ブライデンバッハの丘が見えた。

「おーっ」

 額に手をかざし、クラウスは声を上げる。

「相変わらずいい景色だなぁ」

「なにをのん気なことを言ってるんです」

 ディーツは息をつき、猟銃を担ぎ直した。

「先に進まないと」

「いや、あそこで一休みしよう」

「はぁ!?」

「ほら、見ろ。いーい天気じゃないか」

 山深い中で、丘は突き出た岩のないなだらかな輪郭を描いている。頂に一本、大きなもみの木が立っていて、その上に雲が一つ浮かぶ以外は、濃い青ばかりの空だった。

「腹も減ったしなぁ」

「……ええ、そのことについて、僕はずっと突っ込みたかったんですよ」

 部下は怒鳴りたいのを必死にこらえ肩を震わせている。

「その手にされている物のことについて」

「これか?」

 クラウスは両手を持ち上げた。片手にはギターケース、もう片方にはバスケットを携えている。

「僕たちは一応逃亡者ですよね?」

「ああ、そうだな」

「じゃあ、なんですか。そのまるでピクニックに行くような荷物は」

「なんだと言われてもなぁ。ああ、ちなみにこのバスケットにはな、昼飯が入っている」

「見れば察しくらいつきます。それを広げて、あの丘の上で食べようとか、提案しそうな予感というか確信も持っています」

「ナターシャが山鳥の肉とキノコをソテーして、サンドイッチにしてくれたんぞ。我が家のご馳走なんだが。そして水筒には白ワイン」

「そ、それは。その、とても美味しそうですね」

「よし、決まりだな!」

 クラウスはにっこりと笑んでみせた。

 

「後の世に“ブライデンバッハの丘の決闘”なんて語り継がれたらどうしよう」

 サンドイッチをすっかり胃袋に収めた後で、ディーツは溜め息をつく。丘をなでて上がって来る風は冷たく、コートの襟を立ててうずくまっていたいほどなのだが、ワインのおかげで腹の底と頬は温かかった。

「それはないな」

 クラウスは空の水筒を放って言った。

「下手をすりゃ、俺たちの存在自体なかったことにされるかもしれない」

「え、縁起でもないこと言わないでくださいよ」

「ほら見ろ、ウル。谷があんなに小さいぞ」

 言われて見ると、視界の下の、さらに奥に赤い屋根がかろうじて見えた。

「アーレンス兄弟も、同じ景色を見たんだろうなぁ」

「ああ、この間の。あれには驚きましたね」

 ウルは苦笑する。巨大な虫の出現で兵器廠の敷地に穴が開いた。参謀局から逃げ出したクラウスとウルは、そこに降りてリジィやセヴランたちと思わぬ再会を果たした。

「兵器廠の下に<地下牢>があるという推測を確かめるため、それから……響石を持ち出すために少尉が穴に入ろうと言われた時も驚きましたけど。まさか、あそこにアーレンス兄弟の楽譜が眠っていたとは、夢にも思いませんでしたね。リジィさんたちから聞かされた話も、にわかには信じられませんでした」

 村を焼き払った化け物の話を思い出す。

「よかったんですか? 民間人にあんな極秘事項を知られたまま放っておいて」

「俺たちはもう兵器廠所属じゃないからなぁ。それに、リジィなら心配ないだろう」

「いや、あそこにいたのはリジィさんだけじゃないですけど」

「アーレンス兄弟たちが住んでいた村は、アイヒンガーからどれほど離れていたんだろう」

「そうは離れていなかったんじゃないですか? リジィさんの話はすべてを信じることはできませんが、炎はこの丘から見えたんでしょう」

「5頭の翼竜か」

 クラウスは天を仰ぐ。

「本当にいるなら、ぜひ会ってみたいものだな」

「なにを言ってるんです。そんなお伽噺に出て来るような化け物、いるはずないじゃないですか。万が一存在するとしても、近づかないことをおすすめします。少尉なんか一瞬で丸焦げにされてしまいますよ」

「はははっ、丸焦げか」

 そうだよなぁと上官は笑声を立てた。

 と、そこに――

「少尉……!」

 ディーツが片膝をつき、猟銃を手にする。木の陰を抜け、丘の下に現れた黒髪の男。

「アダム・レール准尉!」

「これは“帝国の頭脳”」

 鋭い視線の男は、表情一つ変えずに丘を登って来た。

「随分とくつろいでおいでだ」

「ああ、昼飯を終えたところでね」

「……アイヒンガーで何をしていた」

「何も」

 クラウスは立ち上がり、もみの木に立てかけていた<皇帝>を取り、抜刀した。馬車ごと斬り捨てるために鍛えられたのではないかと思われるほどの、大きな刀身。実際、あれで地下から現れた巨大な虫を叩き斬った。ふつうなら抜くだけで相手を圧倒する代物だ。

「ただ家族に会いたかっただけだ。それに、これでもまだ逃げ切れるつもりでいるんだが」

「どこまでも人を食った態度だ」

 アダムの両手は垂れ下がったままだ。

「もう一度自白剤を飲んでもらうことになる」

「あれは“ギフト”じゃなかったかな」

 自白剤の名を言い当てられ、アダムはクラウスを見上げた。丘を吹く風が准尉の背を押し、発明家の髪をかき混ぜる。

「昏睡状態に陥りながら、分析をしたのか」

「残念ながら、あの薬は俺には効かない」

 クラウスは微笑した。それは先ほどディーツに言ったのと同じセリフだった。

「俺は記憶を何層にも分けている。知られたくないことは、奥のほうにしまっている。薬では簡単に引き出せない。今のところ、“ギフト”以上の自白剤は開発されていない。合っているかな?」

「ふん」

 アダムの眉間にしわが刻まれた。

「そうだとしても、貴様の不利は変わらん」

 銃声の乾いた音が一発、晴れた空に響き渡る。

「――あああ!!」

「ウル!」

 手の動きが見えなかった。秘書官は腰の銃を引き抜くと同時に発砲。猟銃を構えるディーツの肩に命中させた。銃弾は貫通せず肉を食んだまま留まる。軍曹は血で染まる軍服の肩を押さえ崩れ落ちた。

「これでも逃げ切れると豪語するのか」

 アダムは銃を捨てる。抜刀せずに一歩、そしてもう一歩、クラウスに近づいた。

「しょ、い……にげて、ください……!」

 ディーツが絞り出す声を遮るように、クラウスは長剣を正眼に構える。

「ヴィルシュテッター様に逆らう者は、何人たりとも斬る」

 秘書官が跳躍した。

「――!?」

 同時に、銀の閃光が横凪に襲いかかる。気づくと右頬に白刃が迫っていた。

「く……!」

 クラウスは咄嗟に上半身を反らして<皇帝>で受け止める。が、バランスが崩れた体勢では予想以上に思い斬撃を撥ね返すことができなかった。背を地に打ちつけ、そのまま1mほど押し飛ばされる。

「死ね」

 着地と同時に爪先を蹴ったアダムが疾駆した。クラウスは太刀の斬撃を仰向けのまま受け止める。

 

「――降参」

 

「……?」

 

 額に汗を浮かべた発明家は、交わる刃の向こうにいる軍人に微笑する。

「降参だ、准尉。俺は大人しく投降する」

 それでも力は緩まない。ギチギチと刃の合わさる音が、耳の中でやけに大きく響いた。

「狼大佐にも協力する。楽団の創設にも、もちろん助力を惜しまない。本当だ。ほら、今手を緩めるから」

「……」

 うながされると、ようやくアダムはそれを察して<皇帝>の柄を握った。

「ウルの手当てをしてやってくれないか。頼む」

 仰向けのまま両手を挙げるクラウスを、アダムは数秒の間見下ろした。やがて彼の上から退き、二刀を鞘に納めると「衛生兵を連れている。応急処置なら可能だ」と言った。

 

 

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