「音楽祭は雷鳴と共に」11 楽団アレス・ムジク

 

「アマデウス、エルク! もっと慎重に運びなさい」

 

 レザンスの焼け野原に少女の声が響く。

「傾いているわ。それでは汚れてしまいます。カール!」

「はい、お嬢様」

 ぬかるんだ土に赤い絨毯を敷く。その上に鎮座した特大コンサート・グランド<残響(ナーハ・ハル)>は、秋の柔らかな陽射しを浴びて艶めいて見えた。

 ブリーゼマイスター家の執事カールは、腰に差した革製の鞘から得物を抜く。それが巨大な音叉であると見とめた観衆からどよめきが起こった。それが大きく振り上げられ空を薙ぐと、風が歪んでぼんやりとしたラ音を彫り出す。音を聴き取ったフローリアンが<残響>の鍵盤を一つ叩いて、うなずいた。それからガウスが加わり、ヴィンター朝に生きた天才少女イステルの18時間にも及ぶ大作『ピアノと管弦楽奏者そして歌える者のための練習曲第2番~プレエ~』のさわりを連弾で演じる。客席から「なんだぁ、その堅苦しい曲は」や「酒が美味くなるのを演ってくれよ!」などとひやかす声が湧いたが、どれもが陽気で、皆この場を楽しんでいるのだ。カールの音叉の調律も連弾の調整も演出で、本来ならこんなことはしない。だが、それがこの寂しいレザンスに陽気な風を運び込む。嫌な記憶を一時薄れさせてくれる、そんな演奏会の幕開けを期待させる。

 

 

 広場から周りを見渡すと、少しずつ小屋が建ち始めているのがわかった。

 焦げた石壁、泥水の臭い。そういった火事の跡の隙間に、まるで新芽が顔を出すように、簡素な木の屋根がのぞいている。火元となった演劇小屋があった広場はまだ寂しいが、劇団<疾風怒濤>がこしらえた小さな舞台があった。だが、ここに<残響>は乗せられない。そこで、真っ白で繊細な飾りを施したピアノは舞台の前に置かれた。

「議会も軍も、ここを更地にできないそうですわね」

 グレーテルがリジィの隣へやって来て言った。

「そうなの?」

「手続きが進まないのだそうです。王家の土地であることが幸いしましたわ。今回ばかりは、皇帝陛下に感謝申し上げなければ」

「でもさ、皇帝って狸オヤジの言いなりなんだろ? なんで議会は何もできねーんだ?」

 <3月(メルツ)>を抱いて温めていたルッツは首を傾げる。フルートを寒気から守って音程を下げるのを防いでいるのだ。

「あら、よくご存知ですわね」

「レザンスの連中は皆狸嫌いだからな」

「狸(ブレロー)ではなくて、グスタフ・ハイデッガー宰相でしてよ」

「似てるだろ?」

「え、ええ。まあ」

 グレーテルは少年から顔をそらす。

「あ、グレーテル。笑うのがまんしてる」

「ち、ちがいますわ!」

 リジィの指摘を令嬢は顔を赤くして否定する。それから小さく咳をした。

「……たしかに、宰相は陛下のご意志を思うままにしているそうですわね。ですが、それは議会に自分の我がままを押し通す時だけです。王家所有の土地に関しては、陛下お一人のご決断では難しいですわ」

 

「あ、ロマンさん!」

 

 難しい話から逃げていたリジィが、木の箱を並べた急ごしらえの客席の最後列に、大男が座ったのを見つけて駆け寄る。

「ロマンさんも練習ですか?」

 丈の短いジャケットを羽織っているので、腕のタトゥは隠れていた。

「お前たちは演奏会か?」

「えっと、皆さんが集まって来てくれて。練習を聴いてくれるって言ってくれて」

「俺も混ぜてもらうぜ」

「聴いて、くれるんですか?」

 栗色の双眸が丸くなると、<疾風怒濤>の楽長は舌打ちをした。

「文句あるのか」

「いえ、嬉しいです。だって」

 彼らの練習風景はとても好ましかった。先日この場所で遭遇した出来事を思い出す。

「響石を相手に練習をするのは、やっぱり違うって思ったから。ロマンさんたちを見て、わかったんです。だって、わたしたち、皆と音を楽しみたいから」

「だが、本番まで10日を切った。出演者たちは、晩餐会だのなんだのと引っぱり回されているんだろう。時間がない。響石に音を調整されながら演ったほうがいいんじゃないか」

「練習はがんばります。もちろん。グレーテルも賛成してくれて。ルッツも、ロマンさんに認めてもらえるようになりたいからって。それに、ほら」

 リジィは客席の前列を指した。

「イギィたちも来てくれて。こうやって皆で集まれるのが、とっても嬉しいみたい。あがり症の克服にもなるかもって」

 人前で極度に緊張してしまうルッツだが、イギィたちの前で演奏するのは慣れている。それに、顔見知りのレザンスの人々が相手なら、大勢の視線にさらされることへの抵抗も少ないかもしれない。客席には金色の髭をはやした「喜び(フロイデ)」の料理長の顔もあった。

「おい、あっちにいるのは」

 ロマンは驚き、声を上げる。

「ハルトマン伯爵じゃねぇか。なんで貴族がレザンスなんかにいるんだ?」

 子どもたちの後ろに陣取られた数席には、木箱に赤い布が何重にも敷かれていた。その上にでっぷりとした体を乗せている男は、レイグラードを代表する音楽愛好家の一人、ハルトマンだ。敷物でかさ高になった席に文句を言う後列の者たちの罵声を涼しい顔で聞き流し、執事から渡されたティーカップに鼻を寄せて溜め息をついている。

「ふふ」

 リジィは「すごいんですよ」とロマンに言った。

「この間、ハルトマンさんの晩餐会で、ルッツが演奏したんです」

「あのガキが? 伯爵の晩餐会で?」

「そうしたら、伯爵がルッツの演奏をすごく気に入ってくれて。この間のオペラ座の公演にも来てくれて」

「それは新聞で読んで知っている」

 大男は眉根を寄せる。

「それで、わたしたちの楽団を褒めてくれたんです。まだ不安定だけど、とてもいいって。グレーテルのピアノが独り歩きをするのかと思ったけど、そうじゃなかった、お互いが支え合おうとしている演奏だとわかって好きになったって。それで、わたしたちの楽団のファン1号になるよって言ってくれたんです。えへへ」

「あの伯爵をたらし込んだのか。ままごと演奏じゃねぇ、ってことか」

 ロマンは目を細めた。わざわざレザンス地区に踏み入れてまで聴きたいというのは、よほどの熱の入れようだ。

 この焼け果てた寂しい、貧しい場所で、レイグラードの音楽史が、とてつもなく大きな変化に向けて静かに動き出したかのような。そんな興奮が<疾風怒濤>の楽長の胸中に生じる。ブリーゼマイスター家の令嬢が、天才少女ともてはやされている楽団員がスラムで演奏することもそうだ。

「そういえば。ロマンさんたちは音楽大祭に出演しないんですね。予選音楽会でも見かけなかったし」

「ああ。俺たちは予選に参加しなかった。大祭当日はレイグラード中で演奏会が開かれるからな。俺たちはここを会場にして、大勢の客を引っ張り込んでやろうと企んでいる」

「ここで演奏を?」

「小屋が見えるだろう。あれは当日に屋台を出す準備をするためだ。レザンスなんぞ誰も近寄らないと思っているだろうが、そこは俺にも考えがある。あそこにフロイデの料理長がいるのも、それが縁だ。フロイデのメニューを、ここで食べられるようにする。大祭の間だけ、特別にな」

「それ、とってもいいアイディアだと思います!」

 レイグラード屈指の料理店が名を貸すなら、レザンスへの抵抗感も薄らぐかもしれない。美味しい郷土料理の屋台なら、新聞社や観光誌の会社も飛びつくのではないか。そうすれば、もっとここへ人が流れてくれる。

「あの、当日はわたしたちも出演させてもらえませんか? グレーテルに頼んでみてもいいですか?」

「頼むもなにも、楽長(カペル・マイスター)はお前だろう?」

「そ、そうですよね」

「よし、俺も真剣に聴かせてもらう。中途半端な楽団は呼ぶつもりはねぇからな。気づいたことがあったら遠慮なく言ってやる」

「は、はいっ。よろしくお願いします。でも、ごめんなさい。ロマンさんたちの練習場所を占領しちゃって」

「俺たちのじゃない。ここは皆の場所だ。誰もが等しく音楽を奏でることができる。貴族も庶民も関係ない」

「皆の場所……はい、ありがとうございます!」

 リジィは深々と頭を下げ、舞台へ駆けて行った。

 

「ぷりむろーずのはなたばを……はなたばを……」

 ルッツは舞台の上に立ち、胸に両手を当てている。

「グレーテルのおまじない。もしかして、ルッツ、緊張してるの?」

 リジィはフレティストを見上げた。

「き、緊張するだろ。イギィたちに見られてるって思うとよけいにさぁ」

「あきれた。そんなことでは、音楽大祭で失神してしまうわね」

 <残響>を前に座ったグレーテルが溜め息をつく。

「だいじょうぶだよ。だって、わたしたち、オペラ座の舞台でもちゃんと演奏できたんだから」

「……お前、なんだかんだいって度胸がついてきたよなぁ」

「二人とも気合いを入れてちょうだい。今回ハルトマン伯爵を満足させられたなら、わたくしたちの出資者になっていただける約束になっているのですから」

「えーっ?」

「聞いてねー!」

 グレーテルの言葉に、二人の顔が引きつった。

「し、ししし失敗したらどうしようグレーテル!?」

「冗談だよな? あの伯爵、本当はブリーゼマイスター家に近づきたいから、オレたちのファンだって言ってるんだよな?」

「失礼ですわよ、ルッツ」

 グレーテルは声を尖らせる。

「伯爵は音楽に正直な方です。それに、当家とハルトマン家は長いお付き合いですわ。今さらお父様に媚を売る必要はありません」

「よかったね」

 リジィは微笑した。

「だって、グレーテル、ハルトマンさんに助けてもらったんだよね?」

「初舞台の時の話ですわね」

 そうね、と令嬢は返す。

「やっと、彼に恩返しができるかもしれませんわ。伯爵に喜んでもらえる音楽を、この楽団で紡ぐことができるのなら。それに。わたくしは、ブリーゼマイスター家の後ろ盾など必要としたくはありませんもの」

「そっか。うん。ハルトマンさんに気に入ってもらえるように、精一杯がんばろうね!」

 リジィの緊張はほぐれたようだ。まじないを繰り返しているルッツを手招きする。

「ルッツも降りておいでよ」

「はぁ? なんで」

「グレーテルの音だけ下にあるのは、居心地が悪いんだもん。ね?」

「――ああ、そうだな。言われてみれば」

 少年は薄茶色の髪をくしゃりとなでて、舞台から飛び降りた。

 

     *

 

  月下の花影に潜む 愛しき人よ

 

 曲線を描くような伸びやかな声が、レザンスの広場にしみ込んでいく。

「焼けているな」

 石を連ねた耳飾りが揺れる。褐色の肌と、少し癖のある黒髪を持った青年は、白い民族衣装を秋風になびかせながら、客席に向かってゆっくりと歩いて行く。今日の印象的な夕焼けは、その赤黒い虹彩がもたらしたものではないかと、見る者すべてが思ったことだろう。

「狸には邪魔だったのでしょう」

 その一歩後に、長身の従者がいた。雪のように真白な髪、そして焦げた肌の色。鮮血を連想する瞳は、主の姿をいかなる時も追い続ける。それらは両の腰にさげた2丁の銃よりも目立った。

「大陸中に見栄を張りたい時に、このような場所があっては見劣りする。それで火をつけたのではないでしょうか。我が君」

「余計に目立ったな。これは私の失態ですと書いた大旗を手に、頭を垂れているようなものだ」

 青年――オトフリート・ダウデルトは鼻を鳴らした。

「狸の程度も知れた。この一画すら思い通りにできないなら、交渉相手に値しない。もっとも、俺たちの目的は端からそいつじゃないがな」

「やはり接触がありましたか」

「ああ。こちらが例の楽譜を所持していることを、ちゃんと嗅ぎつけてくれたらしい。我が国に忍び込んだ密偵を泳がせておいた甲斐があった。さて、どちらを転がして遊ぶのが面白いか。イヴァンはどう思う?」

 従者イヴァン・ラサークはそれに答えず、胸に手を当て主に敬意を払う。

「すべては、我が君の仰せのままに」

「ふん」

 オトはもうその話題には興味がないようだった。100人はいるだろうという人垣を見て舌打ちをする。

「あの!」

 歌い終わったリジィは、まばらな拍手が鳴り止むのを待って切りだした。

「ありがとうございます」

 深く辞儀をする。こんなに温かい観客は初めてだ。音楽を聴きながら、酒を飲み、愉快に笑っている。誰が作曲した歌なのか、知っている者はほとんどいない。耳が、好きか嫌いかを正直に聴き分ける。技巧を分析する者もほとんどいない。ただ聴いていて楽しいか、そうでないか。それだけがすべてだった。

「いや、よかった。オペラ座で演じた時よりも、息の接ぎ方がうまくなっているよ。リーゼロッテ・ゲルル嬢」

 ハルトマン伯爵が手を叩きながら立ち上がる。リジィとグレーテルは顔を見合わせ、ほっと息をついた。

「音楽大祭が楽しみだ。私は君たちの楽団が優勝するのに、300万、いや1000万クラーネ賭けることにしよう」

 きっと独り勝ちをするだろうから、勝った分は楽団の資金に回そうと言って笑う。賭け(ヴェッテ)は伯爵の道楽の一つだった。それを聞いたレザンスの元住民たちは「俺たちの家を建ててくれよー!」と言ってはやし立てる。

「それで、楽団の名は決まったのかね?」

「は、はい」

 ハルトマンの問いかけに、リジィはうなずいた。音楽協会の楽団登録は番号であるが、親しみを持ってもらうために各楽団は名前をつける。<疾風怒濤>、<猫>、<水星>。ツァイト・ロースの新聞記者カルヴァも、なるべく早く楽団名を持ったほうがいいと言っていた。

 リジィは小さく息を吸い込み。そっと目を閉じる。

 

「アレス・ムジクです」

 

「アレス・ムジク――すべての音楽、という意味かな?」

 

 伯爵は首を傾げた。

「ええと、<みんなの音楽(アレス・ムジク)>です」

「“歌は、すべての者の頭上に等しく注ぐ神の吐息である”――偉大なる音楽家ハンス・シュトレーメルの遺志を、楽団名に込めましたの」

 グレーテルが言い添える。

「それと、やっぱり皆さんに楽しんでもらいたいなって。たくさんの人に聴いてもらいたい。さっきのアリエを歌っていたツェツィーリアさんの、願いでもあったから」

 腰の声量銃<終止和音>に手を当て、リジィは観衆に語りかけた。

「いいんじゃねーか」

 答えたのは「フロイデ」の料理長だ。髭を撫でながらうなずく。

「料理も同じだ。美味い物を食って、笑い合う。そこに身分や立場のような、面倒くせぇものは必要ねぇ」

「親方……」

 ルッツが目を輝かせると、料理長は頬をかきながら「料理長(コホ)と呼べと言っただろ」と言った。

「アレス・ムジク。なるほど、いい楽団名だ。レイグラードは君たちを歓迎しよう」

 ハルトマンのかけ声に合わせ、今度はまとまった拍手の波が押し寄せる。口笛やら、ひやかしの声もまざっている。3人は並んで頭を下げた。

 

「リジィ!」

 

 そこに、拍手を切り裂いて、男が割って入ってきた。

「オ、オト……?」

 突如眼前に現れた青年。まったく予期していなかった。

「どうしてここが?」

「イヴァンに探らせた。レイグラードの楽団員には、もっとちゃんとした練習場が用意されるものだと想像していたんだが」

「わたくしたちが、自らの意思で選んだのです」

 グレーテルがリジィをかばうようにして立つ。

「なんの用ですの?」

「リジィ、約束だ」

 オトは小さな令嬢を視界に入れない。

「練習の合間に、俺に付き合って晩餐会に出る。そうだったよな?」

「え、えっと」

 リジィはうつむきたかったが、オトの双眸に捕らえられ身動きできなかった。鷹の王子。その異名さながらの鋭い視線は、しかしどこか子どもっぽくもある。危険だ、近づくなとセヴランやグレーテルに散々忠告されたのだが、やはりリジィには彼がどう危険なのか理解できなかった。

「おあいにくですけれど、リジィはこれから当家に戻って練習の続きをするのです」

「だが、お前はオペラ座に行くのだろう。夜の7時から第1幕の通しだ。マルガレーテ・フォン・ブリーゼマイスター。ならば、リジィが抜けてもいいはずだ」

 オトは初めてグレーテルを見る。

「なぜ、詳細なスケジュールを」

「他にもいろいろと知っているぜ。主役級の演じ手たちが、帝国陸軍に拘束されていることもな」

「え……!?」

 リジィとルッツは驚いた。

「ほ、本当なの? じゃあ、ダニエラさんも?」

「ええ」

 グレーテルは苦い顔をして癖毛の先を指に巻く。

「シュトレーメルのオペラは本番まで極秘。それで……ごめんなさい、これ以上は言えません。言えば、わたくしは楽団員の資格を剥奪されてしまいます」

「ちょっと待てよ! どういうことだ? なんで陸軍に逆らったら、協会から罰を受けるんだよっ? おかしいじゃねぇか」

 ルッツは声を荒げた。音楽協会は、議会や陸軍から独立した組織であり、グラード王家との関わりとその歴史を誇りとしてきた。それが、これではまるで従属しているようではないか。

「俺には関係のないことだ。リジィ、行くぞ」

「あ」

 オトはリジィの腕を取り歩き出した。

「待ちなさい!」

「なんだ」

「行かせません。あなたのような人を、リジィに近づけたくありません」

「俺のようなっていうのは、どういう意味だ?」

「それは……!」

 鷹に射すくめられたグレーテルは何も言い返せない。

「それから、今晩リジィが顔を出すことを、教会音楽家のヨハン・ヨーゼフ・シフ卿はとても楽しみにしていると言っていた。それを断れば、アレス・ムジクの評判に関わるんじゃないか?」

「シフ卿ですって?」

 令嬢の顔がこわばる。

「シフ殿は、音楽大祭の審査員の一人だ。彼の晩餐会なのであれば、断るわけにはいかないな」

 ハルトマンも苦い顔をした。

「な? リジィはシフ卿に会っておいて損はない。時間がない、行くぞ。馬車を待たせてある」

 白い衣装と音楽学院の制服が赤黒い夕闇に溶けて去っていくのを、グレーテルとルッツは見守ることしかできなかった。

 

     *

 

「あの。ねぇ、オト?」

 

 壁に背中をつけたリジィは、隣のオトを見上げる。

「ご挨拶に行かなくてもいいの?」

 ヨハン・ヨーゼフ・シフの屋敷は、無駄な飾りのない、印象の良い造りをしていた。例えるならば海辺の別荘のような、白と青を爽やかに塗り分けた見た目だ。

 広間には30名ほど入ればいっぱいになるので、招待客は続きの間にも溢れていた。フォルトナー家やブリーゼマイスター家、そしてハルトマン家などが開くパーティと比べればささやかなもてなしなのかもしれない。それでも、空間には陽気なオルジュの音色が漂い、着飾った紳士淑女が色鮮やかな魚のように泳ぎ回って談笑している。

「お前、それを全部食う気なのか」

 オトは、リジィが手にする皿を観察した。白身魚に火を通したものに香草を絡ませたもの、トマトをくり抜いて中に野菜を詰めチーズとパン粉をかぶせて焼いたもの、仔牛を赤ワインで煮込んだもの。料理名はわからないが、他にも山のように盛り付けてある。

「オトは食べないの? 美味しいよ?」

「一口くれ」

 体を傾けて口を開く。状況をのみ込めないリジィの手首を取り、フォークに刺さった仔牛の肉を頬張った。大きく見開かれた栗色の瞳を、王子は楽しそうに見つめる。

「なかなか似合っている」

「そ、そうかな」

 リジィは己の姿を確かめるように体をひねった。金銀の繊細な刺繡を施した布を重ねて体に巻き、肩で結んでいる。碧い石を連ねた首飾りは長く、栗色の髪を覆う布は肩の上で一巻きにしてあった。

「王族の衣装だ。その碧い石は“ナビール”という。我が国では、ダウデルト家に連なる者しか身につけることができない」

「えっ。そんなに大切な物なの?」

 深い色をした石には、きらきらと光る粒や藍色の複雑な模様も見える。銀河を小さく押し固めたような、いつまで見ていても飽きない不思議な石だった。

「俺がリジィに身につけて欲しかった。だから構わない」

「あ、このにおい」

 リジィは頬に触れた布から甘い香りがするのに気づく。オトに初めて会った時、彼からも同じ匂いがした。

「“アリヤナ”という香を焚きしめてある。それもダウデルト家にしか許されていない香りだ」

「オトって、本当に王子様なんだ」

 傲慢なようでいて、だが無邪気という印象のほうが強い青年だ。ガイドブック片手に異国の街の菓子屋を物色し、カフェハウスでケーキを頬張り、スラムの焼け跡に平気で踏み入る。常に宮殿の奥深くにいて宮廷音楽家たちに囲まれて暮らすグラード王家の人々とは、まるっきり違っていた。

「6番目は身軽なんだ」

 そう言うオトの鋭い虹彩が、広間の中央に向けられた。

「あれを見ろ。俺の兄だ」

 長身の青年は晩餐会場でとても目立っていた。第2王子ユリアーン・ダウデルト。病死した父王の跡を継いだばかりの、若き為政者。オトと同じ肌の色をしているが、ひどく痩せているので印象はまるで違う。濁ったルビーのような瞳はおどおどと泳ぎ、やっとのことでシフ卿を見つけた。恰幅のいい音楽家と並べば、王子の頼りない印象が際立つ。側につき従っているイヴァンの耳打ちにうなずきながら、たどたどしく会話をしていた。

「あの兄は、これまでに7度、俺を殺そうとした」

「え……」

「食事に毒を仕込んだ。毒見役が泡を吹いて死んでいく様を、俺はこれまで数えきれないほど見てきた。初めは恐ろしくて震えたが、そのうち何も感じなくなった」

「そんな」

 オトは微笑している。そこに悲しみや怒りのような感情は読み取れない。本当に「何も感じていない」のかもしれない。

「あのように痩せているのは、まともな食事をしていないからだ」

 第6王子の口の端が歪む。

「俺にいつ毒を盛られるのかと、肝を冷やしているんだよ」

「オト……」

「だが、それも王家に生まれた者の定めだ。俺たちは戦士の一族だ。南の故郷を離れ、山脈を越え、北を征服して国を築いた。代々王家の男たちは血で血を洗って玉座を手に入れてきたんだ。強く賢い者が王となる。それが絶対だ」

 違う、とリジィは思った。違う、オトはそうじゃない。だが、何が「そうじゃない」のかうまく説明できない。

「あのね、オト。こっちのお魚も美味しかったよ。食べる?」

 リジィはフォークに白身魚を刺して持ち上げた。

「――お前は面白いな」

 赤黒い双眸は見開かれ、それからすっと細くなった。口を開け、魚に噛みつく。

「お前、俺の噂を聞いただろう? ブリーゼマイスターの小娘から」

「う、うん」

「なぜ警戒しない」

「う、うーん。なんで、って聞かれても。わたしもよくわからなくて」

 父王も第1王子も「鷹の王子」に毒殺されたと噂されているが、公式には病死と発表されているのだ。

「はは!」

 オトは声を上げて笑った。

「正直に言えば、俺は音楽というものがさっぱりわからないし、いいものだとも思っていない」

 王子はリジィの持つ皿を取り上げてテーブルに置いた。

「だが、お前の歌声は独り占めしてもいいと思った」

 民俗衣装を身にまとった少女の片手を捕まえ、壁に縫い止める。体を近づけ耳元に口を寄せた。

「その腰の銃にも興味がある。我が国には、悪しき竜を撃ち抜くのは音であるというまじないの言葉が伝わっている」

「竜?」

 リジィは首を傾げた。竜など、お伽噺の生き物ではないか。それとも何かを暗喩しているのだろうか。

「……まったく、面白いよ。お前たち」

「オト?」

 体勢はそのままで、オトは視線を横に向けた。

「失礼するよ」

「見計らったようなタイミングだな」

「セヴラン!」

 オトの背後から現れた人物にリジィは驚く。

「彼女を離してくれる」

 湖を凍らせるような冷気を声音に込めて、漆黒のガイガーは言った。

「オペラの練習は終わったのか。ああ、そうか。この大事を前に、大変なことが起こったんだったな」

 リジィを手放したオトは喉を鳴らす。

「シュトレーメルのオペラを指揮するはずだった宮廷楽団員のメア・ダフロフスキーが急死した、というニュースを聞いた」

「……」

「代役は本番まで伏せられるそうだな。お前は知っているんだろう? 誰だ?」

「言えないね。言うつもりもない」

「さすが、レイグラード屈指のガイガー。気位の高い」

 オトは二人から離れた。兄王に視線を送る。ユリアーンは体をこわばらせ、イヴァンはこちらに向かって頭を下げた。

「イラッリカー、リジィ。そしてセヴラン」

 リジィは片手を挙げて去る王子の背を見つめる。

「ねぇ、セヴラン。“イラッリカー”ってどういう意味?」

「……“また会おう”だよ」

 セヴランは苦い顔で答えた。それから咳払いをする。

「それにしても、キミって人は」

「なに?」

「知り合ったばかりの男に、そこまで合わせる必要があったの」

「そこまでって?」

「その衣装――は、とてもよく似合っているんだけど」

「セヴラン、あの」

 リジィは頭の布を取り去り、漆黒のガイガーを見上げた。アリヤナの香りが二人の間を漂う。

 

「この間の返事をしなくちゃ、って思っていたの。ずっと」

 

 

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『歌姫ツェツィーリアに捧ぐアリエ』~月の花筐・第3楽章におけるアリエ~の歌詞はこちら