「音楽祭は雷鳴と共に」13 音を奏でる翼竜


 

 その夜遅くに、リジィとセヴランは「野薔薇(ハイデンルースライン)」を去った。

 日をまたぐ頃になって、帝国陸軍の装甲車が二人を――正確にはセヴランを迎えに来たからだ。音楽大祭のオペラ奏者は監視対象であり、外泊は許されていない、貴方がたは我が国の賓客だが従ってもらわねばならいルールはある。私的な食事へ勝手に招かれては困る。そう詰め寄られ、形式的なものとはいえ王族は尋問を受けるはめになった。場は張りつめた。イヴァンは主が真夜中に拘束される無礼に耐え兼ね、腰の得物を抜こうとしたほどだ。

 だが、収穫はあった。

 

「余計な水をさしてくれたな、狼大佐は」

 春を待つ離宮の庭。鷹の王子は、その二つ名にふさわしい鋭い双眸を夜空に向け、口の端で笑む。

「この愉快な間奏曲(インテルメッツォ)を、リジィにも聴かせてやりたかったんだが」

 夜空には、少しだけ欠けた月がくっきりと浮かび上がっている。冷えた風が褐色の肌を突いた。

 そこに――突如、大きな影が割り入ってくる。

「来たな」

 手にしていた剣を振り上げる。三日月を剥ぎ取ったかのような曇りのない白刃が、その「化け物」を挑発した。

 不気味な低音が、それに応えて響く。オーボエの音色に似ているような気もするが、それはひどい割れ方をしていた。

 

「やっと会えたな――悪しき竜」

 

 風が巻き起こる。枯れ葉が舞い上がり、そのうちの一枚がオトの頬を叩いていった。

 悪しき竜。真黒な、羽を持つ化け物。

 その頭は5つに分かれ、それぞれが大きく避けた口に攻撃的な意思を宿している。音が止んだ。

 ダンッ、パダンッ、パダダパダダダンッ!

 バスドラムとゴング、シンバル、そして複数のトランペットの音が重なり、重厚な音の塊となって降って来た。

「ふぅん」

 それが闇色の竜の口から奏でられたものだとわかり、王子はますます頬を緩める。アレグロの楽曲に、ヴィオラ、チェロ、フルート、オーボエも加わる。主旋律を奏でるのはヴァイオリン。その隙を縫って絶え間なく音の羅列が滑っていく。

 元グラード王室の楽師・故レイニフ作曲の組曲『ヴァイオリンのための協奏曲―情熱(パッスィーフ)』。その曲名を、異国の王子は知らない。

(……何?)

 ふいに、オトの足元がぐらぐらと揺れた。まるで波の上にいるようだ。剣を構えたまま竜を睨む。さて、どう来る? その曲は、何を形にする? やってみろ――

「――!」

 眼前が大きく盛り上がり、土の鎧が剥げ落ちた。

「これは」

 月の滴に照らされた赤黒い巨大な外骨格。一角獣の如く突き出した角と、両端から挟み込み引きちぎるために発達した顎。カブトムシとクワガタムシを足したような外見で、その間にある複眼は白く濁っている。

 化け物の肌鎧を、パラパラと落ちていく土の音に耳を傾けながら、オトの同じ赤黒い瞳は凝視する。

(<地下牢>の虫……こいつが!)

 王子は笑っていた。己の背丈の数倍はあろうかという虫を相手に、その先に黒竜が控えているというのに。

 と――

 低く乾いた音が二発。それと同時に、金属を激しくこすったような悲鳴とともに、虫が後方へ一歩退いた。鋭い顎の下に撃ち込まれた弾が、体液を垂れ流させた。

 振り返ると、硝煙の向こうに鮮血の双眸がある。両腕を突き出し銃口を向けていたイヴァンは、主を背にかばうために前へと出た。

「どけよ、イヴァン」

 オトは舌打ちをする。

「俺の獲物だ。横取りするな」

 白髪の親衛隊長を押しのけた。虫が体勢を立て直す。両の複眼を撃ち抜かれ、濁った体液を垂れ流している様は不気味という他ない。だが、それは<地下牢>に棲む存在には無意味な負傷であった。目は、もともと見えていないらしい。当然だ。深い闇の留まる空間で、あの複眼には何の価値もない。

 竜が音を奏でる。亡き宮廷音楽家の、音色を再現する。

 虫を操っているのだ。

 響石のない地上で、選ばれた楽器を持たない化け物に共鳴している<地下牢>の主。オトは口の端を持ち上げる。

 駆け出した。虫の腹めがけ三日月の刃を突き上げる。鎧の弱点は、先ほどイヴァンの銃弾が導いた。

 ギャッとまるで人の悲鳴のような音を上げ、虫が飛んだ。隠し持っていた4枚の羽は月光に透けて輝き、持ち主にはふさわしくないとオトは感じた。

「逃がさねぇ!」

 王子は腕を振り上げた。碧いナビールを連ねた耳飾りが揺れる――剣が、オトの手から消えていた。

「我が君」

 イヴァンの長い腕が王子の肩を捕らえ、引き寄せる。同時に、二人の目の前に、体液の塊がボトボトと降った。間を置かず、赤黒い巨体が地にめり込んだ。

「コイツに近づいてみろよ、ひどい臭いだぜ」

 足下に落ちて来た虫の死骸を蹴とばしたオトは笑った。仰向けになった地下の主の腹に剣が深々と突き刺さっている。半透明の羽は地を打って忙しなく動いていたが、やがてそれも止まった。

「カビと、脂が腐ったような臭いが混ざっているみたいだな。これが音楽都市の真の姿だってことだ。なぁ、イヴァン」

「お離れください。毒を持っているかもしれません」

「ふん。持ってねぇよ。<地下牢>の奥深くで、捕食されることもなく我が物顔で生きているこいつに、毒を持つ必要はない」

 オトは鼻を鳴らす。

「俺の特技は毒の気配を嗅ぎ分けることだ。“誰かさん”のおかげでな」

 鷹の王子は振り返った。5棟のうちの一つに潜む者が、こちらの様子を察知して息を飲んだ、気配がした。

「聞こえるか悪しき竜!」

 空を見上げたオトは、こちらを見つめる10の目が静かな色をしていることに気づき、たまらなく嬉しくなった。勇ましい音楽は止んでいる。竜の羽が空を切って鳴る音だけが、秋の夜気を震わせる。

「貴様の欲しがっている楽譜はこれだろ!」

 ゆったりと着た衣装の懐から取り出された紙の束。焼けて変色し、端はかなり傷んでいる。宙の翼竜から、再び割れたオーボエの音色が放たれた。

「は。怒ってやがる」

 オトはますます上機嫌になった。楽譜をぞんざいに扱われて怒りを露わにする竜というのは、最高の皮肉じゃないか。

「盗りに降りて来いよ。切り刻んでやる」

 楽譜を懐に戻し、イヴァンから新たな剣を受け取る。5つの竜頭が牙を剥いた。羽を大きくはばたかせ、こちらへ大きく体を傾ける。

 来る。

 好戦的な赤黒い双眸は輝いた。アウガルテンでショコラトルテを頬張った時と同じ、嬉々とした表情になる。

 ――が。

 竜は首を持ち上げ、空高くに舞い上がった。すぐに豆粒ほどの影となり、夜空に紛れて消えてしまった。

「我が君」

 苦い顔を隠さない主にイヴァンが声をかける。

「邪魔が入ったな」

 オトは剣を投げ捨て親衛隊長に言った。離宮の棟の中で灯りが揺れ、ほどなく深緑色の軍服を着た男が一人現れた。イヴァンに耳打ちをする。

「帝国陸軍のようです。奇妙な音の理由を説明しろと」

「敷地外から監視してやがったのは知っていたが、思ったより早かったな」

 どうせ狼(ヴォルフ)の手配だろうとオトは言い捨てた。

「俺は寝ているから朝出直して来いと言え。一歩でも踏み込もうものなら撃ってもいい。野薔薇は今、ヒットルフ領と同等だ。国王ウィレム2世から正式な許可を取って来いと突っぱねろ」

 続いて男たちが庭に駆け込んで来た。一様に軍刀を腰に佩き、丈の長い黒い軍服を着ている。オトフリート・ダウデルト王子の親衛隊。彼らがヒットルフ軍の諜報部隊でもあることは、国外ではあまり知られていない。なぜなら、国境を越える彼らの姿は、常に「軍人以外の何者か」であるからだ。

「一晩あれば、そいつを調べ上げバラせる。なぜ<地下牢>じゃなく地上で、あの竜の音色に操られたのか突き止めろ」

「はい、我が君」

 オトは確信していた。

 以前、グラード帝国に放った部下が「何か」に殺されたことがあった。

 死体はすべて臓物を引き出され、四肢は微塵に切断され、顔の肉が削がれていたという報告を受けている。

 そのような陰惨な死体を転がしておいて、騒ぎにならなかったのはなぜか。

『遺体は残らず地中に引きずり込まれたのです』

 ――という報告だった。

 地中にいる「何か」が、この虫であった可能性は高い。いや、ほぼまちがいないだろう。

(じゃあ、誰が操っていた?)

 虫を地上へおびき寄せた奏者がいたはずだ。先ほどの音を奏でる翼竜ではない。あれが姿を見せていれば、オトの耳に入らないはずはない。

「きなくせぇ」

「我が君」

 イヴァンは鮮血の双眸を虫に向けたまま、その予感を口にする。

「音楽大祭で何かが起こる、のではないでしょうか」

「違うな。音楽大祭で何かを起こすつもりだ。誰が何を企んでいるかは、だいたい見当がつく。それを見物できるなら、わざわざ来た甲斐があった」

「はい。我が君」

 風が庭を駆け抜けた。兄王ユリアーンが眠る棟に、灯りがともる。

 

「イラッリカー、悪しき竜」

 

 オトは月に背を向け歩き出した。

 

     *

 

 カルヴァは把握していた。

 騎士兜に「W」の紋章をつけた漆黒の蒸気式装甲車が、兵器廠(アルゼナール)へ向かったことを。

「クソ坊っちゃんもたまには役に立つな」

 馬車の中のカルヴァは口笛を鳴らす。

「エルヴィンですってば……」

 向かい合って座るエルヴィンは、財布の中を眺めて溜め息を繰り返している。夜中に乗合馬車を強引に貸し切ったので高くついた。仕事を終えた乗合馬車しか捕まらなかったのだ。8万クラーネといえば、リビングとダイニングがついた2部屋のアパルトメントが借りられる。溜め息も出る。

「先輩、一つだけいいですか」

 エルヴィンは財布から目を離して記者を見た。

「何だ」

「こんなことをしても記事にはなりませんよ」

「何が言いたい?」

 カルヴァは後輩を睨む。丸い体がびくりと震えた。

「だ、だって……だってですよ。どう考えたってうちみたいな大衆紙が記事にしていいネタじゃないですよ。帝国の頭脳が参謀局に秘密裏に移ったなんて。音楽大祭はもう始まるんです。軍が何か企んでいるんじゃないかって、誰だって思うでしょう?」

「その通りだ。誰だって疑いたくなるよな」

「いえっ、ですから! そうなんですけど、そうじゃなくて。だから……ああ、もう! からかわないでください」

「エルヴィン」

「な、なんですか改まって」

 じっとこちらを見つめるカルヴァに、エルヴィンはたじろぐ。蹄の音と車輪の石を噛む音がやけに大きく響いているのに、赤茶色の視線に気がいってしまう。

「俺はな、気が短いんだ」

「はい?」

「もの凄く気が短い」

「し、知っていますが」

 社長子息相手であっても、口と手が同時に出る記者だ。

「面と向かって『これは秘密ですから覗かないでください』と言われて、はいそうですかと引き下がれるか。秘密があったら暴く。それが記者だろうが」

「めちゃくちゃです」

「俺はこいつに誓っているんだ」

 カルヴァは胸のポケットから万年筆を抜き出した。1226年製のスキッツェ社の名品“Agilmar(アギルマール)”。記者が書いた記事が、初めて一面を飾った時に買った品だと聞いている。エルザ=マリア・ゲルルについての記事だった、と。

「二度と嘘は書かねぇってな。それに、他にも気になっていることがある」

 連続放火事件を追っていた時、妙な男から情報を提供された。犯人はすでに国外へ逃れた。追っても無駄だ。それよりも、他にもっと面白いことがある――

 そうして導かれた教会の焼け跡で、カルヴァはとんでもない状況に遭遇した。<地下牢>の巨大な虫が、地上へおびき出される瞬間に。クラウスの蜘蛛の発明品がどうしてあそこにあったのか、今は後回しだ。本人に会えなければ何も始まらない。

「というわけだ。俺を説得するのは諦めろ」

「でも、先輩。やっぱり……」

「ここでいい」

 カルヴァは御者台を蹴った。ほどなくして馬車は停まる。車窓から見えるのは、枯草の原を貫く土の道だ。殺風景というよりも、物騒な雰囲気。あちらこちらに刻まれた砲弾の痕、幅の広い轍の跡、杭が打たれ鉄線がめぐらされた場所。

「先輩!」

「お前は来るな。足手まといになる」

 この先に、自衛と破壊を司る武器庫にして研究機関、陸軍の兵器廠がある。

 

 カルヴァが兵器廠へ潜入できる可能性はゼロではなかった。

 以前、クラウスと交渉して新型装甲車について取材の許可を取っていたからだ。廠長への紹介状ももらっている。だが、だからといって今日、しかも夜遅くに突然取材をさせてくれなどという冗談が通じる相手でもない。それは十分にわかっている。

(ま、発明家を出せって駄々こねて居座っていりゃあ、あの参謀長殿の行動の手がかりくらい把握できるだろ。ついでにシリー少尉が本当に兵器廠にはいないのか、確認もできる)

 漆黒の蒸気式装甲車の「W」が意味するのは、ヴィルシュテッター。グラード帝国陸軍参謀局参謀長ベネディクトゥス・ヴィルシュテッター大佐だ。「狼」と呼ばれる男の鋭い貌を思い浮かべるだけで、背筋が凍るような感覚になる。

「あのー! すいません!」

 カルヴァは堂々と正門の前に立ち、声を張り上げた。

「な、何用だ」

 フィールドグレーの軍服を着た門番の二人は、大声に顔をしかめ「こんな時間に何の用だと聞いている」と言った。

「ツァイト・ロース社のカルヴァといいます。取材させてください」

「取材だとっ?」

「すいませんねぇ、こ・ん・な・じ・か・ん・に!」

 門番では話が通じない。中にいる誰かが騒ぎと勘違いして出て来てくれればいいと願った。できれば廠長か、研究者の誰かが。

「あ、紹介状ならちゃんとありますよ! ほら、どうです。あの帝国の頭脳、発明家のクラウス・シリー少尉の直筆です! 嘘は言っていません。どなたか確かめてくださいませんかー!」

「うるさいっ、少し声を抑えられないのか貴様は!」

「いやぁ! 地声がこれなもんで! すいませんねぇぇぇぇぇぇぇぇってさっきから言ってるでしょうが、軍人さん様方!」

「くそ……! 貴様のような怪しい奴、取り次ぐわけにはいかない。出直せ。その紹介状が本物だというなら、ツァイト・ロース社を通して後日正式に手続きしろっ」

「――待て」

 一人が銃口を向けカルヴァを追い返そうとした時、もう一人が制止した。

「ツァイト・ロース社の、カルヴァ……カルヴァ。どこかで聞いたことがあるぞ。どこかで。そうだ、ちょっと待っていろ」

 そう言い残して門の向こうに消え、10分ほど後。

「通れ」

(あっさりといったもんだな)

 カルヴァは口笛を吹いた。

 ――だが。

「はああっ?」

 来客室と呼ぶには殺風景な小部屋に通され、記者は初めて「やめとけばよかった」と思った。

「しーっ、しー! 静かにしてください」

 応対したのは、ここの軍人でもなければ、研究者でもない。ダミアン・コンツ軍曹と名乗った、料理人だった。料理人だが軍属なので階級がある。

「だが、あんた。参謀局の料理人だろ? なんでこんなところに」

「アダム・レール准尉の付き添いで」

(あの秘書官殿か、ここに来ているのは)

 しまったと思った。罠だったか。帝国の頭脳と顔見知りだと気付いた誰かが、カルヴァを口止めせんとするレール秘書官に告げたのだろうか。

「これに着替えてください」

 軍曹はにこにことしながら、カルヴァへ紙袋を差し出した。背はそれほど高くないが、軍服の上からでもわかるたくましい体つきをしている。鼻の下の赤褐色の髭も、この男によく似合っていた。

「これ、軍服じゃないか」

 中身を確かめて記者は眉根を寄せる。フィールドグレーの軍服。襟には“王冠にハイタカ”の国章が縫い込まれ、軍曹の階級を表す剣の襟章が飾られていた。

「なんで俺が」

「クラウス・シリー少尉に会いたいのでしょう?」

「あんた……!」

「あ、ご心配なく。もちろん准尉には内緒です。ちなみに准尉は今、シリー少尉の元研究室ですよ。他に重要な設計図を隠していないか家探し中です。そして、私はこれから准尉を欺こうと思っています」

「は?」

「私はもともと兵器廠の料理人だったんですよ」

 コンツ軍曹は言った。

「少尉のお食事はすべて私がご用意していたんですよ。好き嫌いはもちろん、故郷アイヒンガーの味付けもずいぶんと研究しました。それに、少尉は私にとてもよくしてくださいました。弟が一人いるのですが、その学費まで援助していただいて。ですから、私に出来ることがあるなら何でもします。少尉が、貴方に連絡を取りたがっていたことは聞いていましたから」

 兵器廠の者は皆、クラウスのことが心配でたまらないらしい。一度参謀局へ連れて行かれた後、経緯は打ち明けられないがこちらに顔を見せたことがあった。その時の少尉は、ひどく消耗していたらしい。拷問にでも遭ったのではないかと囁く者も多い。クラウスに命を救われた者もいる。一方で、軍の中にはヴィルシュテッターに権限が集中していることに不満を持つ者もいた。そういった者たちが、部下のウルリヒ・ディーツ軍曹から「クラウスが会いたがっている記者の名」を聞かされ、覚えていたというのだ。コンツもその一人だった。

「信じてください」

「信じるも何も」

 たとえ罠だとしても、クラウスに会わせるという誘いを蹴る理由はない。

「今晩ここへ来たのは偶然です。私が参謀局へ移ってから2年になりますので、その間の少尉の体調や好み等を、こちらの料理人に訊ねに来たんです。それで、思いつきました」

 コンツはカルヴァが抱く軍服を指す。

「貴方、それを着て兵器廠の料理人になりすましてください」

「なりすましてどうする」

「参謀局へお連れします。私が准尉にお願いして、どうしても味付けを教わりたいから厨房へお連れしたいと言います。きっとお許しは出るはずです」

 料理を運ぶ時にクラウスと接触できる。

(俺に、何の用事だろうな)

 考えると心が躍った。おそらく、帝国の頭脳は無茶な要求をしてくるだろう。軍の機密に関わること――いや、国の根幹を揺るがす何か、か。これ以上のネタはない。

「いいですよ。コンツ軍曹の話に乗りましょう?」

 カルヴァは肩をすくめ、大げさな溜め息をついてみせた。

 

 装甲車に乗っている最中、寿命が数年縮んだに違いない。

(あの秘書官やっぱり怖ぇ……!)

 思い出して身震いする。コンツに紹介された「兵器廠の料理人」を、アダムは無言で観察した。車の後部座席で並んで座っている時も、顔はこちらを向いていないが、常にあの黒い三白眼に凝視されている感覚が抜けなかった。呼吸を乱せば、腰の「太刀」ですぐに斬られそう――いや、確実に斬られただろう。参謀局に到着してコンツと二人きりになってもまだ、あの視線につきまとわれているような気がしている。

「ここが調理室です」

 参謀本部はレイグラードの北北西、町のはずれにあった。

 築30年を数える赤煉瓦の建物は、参謀局の象徴のように思われているが、それはここがあの狼――ベネディクトゥス・ヴィルシュテッターの居城だからだろう。

 調理場は、そんな見た目とは正反対といってよかった。清潔な白い壁に囲まれ、大きなオーブンと高そうな調理器具が並んでいる。席数は50ほどだったが、一斉に食事を摂るなどということはしないだろう。幹部なら自室に食事を運ばせるかもしれない。

「いい山鳥が手に入ったんですよ」

 コンツは鼻歌まじりにそう言った。

「少尉の好物です。蒸した後、皮だけ焼きます。サンドイッチがいいですね。きっと喜んでくださいますよ」

「あんたがいるなら、兵器廠から料理人連れて来る必要がなかったんじゃないか」

「それじゃあ、貴方が少尉に会えない」

「だから」

 そのことにアダムは気づいていたのではないか。そう言うとコンツは笑った。

「もし気づいていたなら、貴方はとっくに殺されています」

「物騒なことを平気で言うなよ」

「私も共犯者ですから、はやり殺されていたでしょう」

「……平気で言うなって」

「少尉の新しい研究室は地下です。すぐに行くと怪しまれます。夜食は深夜2時きっかり。その後で仮眠されるかどうかは気分次第です。どちらにせよ朝の8時には必ず一度眠られます。起床は昼過ぎですね」

「なんだ、そのダメな大学生みたいなサイクル」

「あと1時間半ありますので、適当にくつろいでいてください」

「茶くらい出せよ」

 カルヴァは息をつき、軍服の襟を緩めた。

(雲が切れたな)

 食堂の窓はどれも細長く、天上付近まで広がっている。クリーム色の窓枠の向こうで、満月とは言えない光の塊が浮かんでいた。

 ――と。

「な……ん、だ?」

 思わず口から零れる。風にしては低く、唸り声にしては抑揚がある。そんな音が、確かに聞こえた。錆びた楽器が調子の外れた音を止められなくなったような。レイグラードの音楽を聴き続けてきた記者の耳には、そう理解できる。次の瞬間。

「――!」

 すぐ側を影が横切って行った。大きな、だが何と表現していいのかわからない。鋭く伸びた5つの爪を連想させるような、とにかく奇妙な形をしていた。一瞬のことでコンツを呼ぶ間もなかった。影を追って空を見上げることすら忘れた。いや、見上げるのが怖かったのだ。

(何だったんだ、今のは)

 唖然とするカルヴァの耳に、今度は重く空を切る羽音としか思えない音が届いた。

 

 

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>オトが死体の報告を受けたシーン(オトの初登場シーン)→「猫と妖精のディソナンツ」19 過去を食(は)む者